ヤコブの書

 

[公会書簡について]ヤコブ書、ペテロ前後書、ヨハネ第一乃至第三書およびユダ書の七書簡は普通一括してこれを公会書簡または一般書簡 epistolai katholikai = the catholic epistles と呼んでいる。蓋しパウロの書簡は個人または特定の教会に宛てられているのに反し、これらの書簡は大体において一般の教会に宛てられている意味においてこの名称をもって呼ばるるに至ったのである(ただし厳格なる意味において全教会に宛てられていない書簡もこの中に存している。例ペテロ前書、ヨハネ第二、第三書。)この名称は第三世紀の始め頃より用いられたけれども、その範囲は区々であったが、ユウセビウス(260340頃)に至って以上の七書をかく呼ぶに至った。公会書簡の聖書中における場所は東方教会においてはこれを使徒行伝の後に置き、西方教会においてはパウロの書簡(ヘブル書を含む意味の)の後に置いている。前者は公会書簡の著者なる使徒の地位を重んぜるがため、後者はパウロの西方教会に対する関係に重きをおいたがためであろう。

 

[本書簡の著者]書簡の冒頭に示すごとく本書の著者はヤコブである。然るに新約聖書には四人のヤコブあり、(1)ゼベダイの子にしてヨハネの弟なる使徒ヤコブ(マタ10:2。マコ3:17。ルカ6:14。使1:13)、(2)アルパヨ(またの名をクロパ)の子なる使徒ヤコブ(マタ10:3等)、(3)主イエスの兄弟ヤコブ(マタ13:55。マコ6:3。ガラ1:192:912)、(4)使徒タダイの父ヤコブ(マタ10:3。マコ3:18。ルカ6:16。使1:13)である。この中(1)は本書簡の受信者の未だ起らざる以前紀元四四年殉教の死を遂げ、(2)および(4)は聖書によれば著名ならざる人物であって、本書簡の著者としては相応しからず。結局本書簡の著者は古来の伝説のごとく主の兄弟ヤコブであるとの結論に達し、而して本書の内容もこの結論の正しきことを証明するに足る。(なおカトリック教会の主張するごとくアルパヨの子使徒ヤコブと主の兄弟ヤコブと同一人なりとする説の誤謬についてはヨハネ伝十九章末尾の附記二「主の兄弟について」を見よ。)

 

[著者の人物及び地位]主の兄弟ヤコブはエルサレムにおけるユダヤ人のキリスト者の団体の監督であって、初代教会において最高の声望を得、パウロのごときも彼を使徒の首長なるペテロの上に置き、ヨハネと共にこれを教会の柱と呼ぶほどであった(ガラ2:9)。また使15:13以下を見るも彼の意見の重きを為していたことを知ることができる。彼は「義人ヤコブ」と呼ばれ、ユダヤ教徒よりもその高徳をたたえられたということである。祭司アナナスの嫉妬のために紀元六十年(または六十二、三年ともいう)エルサレムにて石にて撲殺された。

 

[本書簡の読者]本書簡の読者は「散り居る十二の族」(1:1)である。これを或は(1)信者未信者を問わずパレスチナ以外の土地に散り居る凡てのユダヤ人と解し(P0)、(2)または霊のイスラエルの意味に解してユダヤ人および異邦人を含むキリスト者の全体と解し、(3)またはユダヤ人中のキリスト者の意味に解している(A1M0Z0)。書簡の内容より見る時は第三説が最も正しき説であって、すなわち当時各地に散っていたユダヤ人(Tペテ1:1)の中キリストの福音を信ずるに至った者に対し、エルサレムの母教会の首長たるヤコブが本書簡を送ったのである。而して当時のユダヤ人のキリスト者の状況は貧困にして多くの試練の下に在り、従って富に誘われ世を愛する者も起らんとし、信仰の告白のみありて行為のこれに伴わざる者を生ずるに至ったので、ヤコブは本書簡においてこれを警戒している。

 

[本書簡の特質]根底においてキリストに対する福音的信仰が流れているけれども(1:1821252:18104:55:7等)これを教理として説明することなく、主として実行の方面に重きを置いている点が本書簡の主なる特徴である。従って四福音書の思想、殊に山上の垂訓に類似せる点すこぶる多く(例1:2とマタ5:121:4とマタ5:481:517とマタ7:7111:22とマタ7:24以下。2:10とマタ5:17以下。3:18とマタ5:94:12とマタ7:15:1以下とマタ6:195:10とマタ5:125:12とマタ5:34以下のごとき)大体において福音的傾向よりも律法的傾向が濃厚で、従って全体に叱責、命令の気分が充満している。パウロの教理殊にロマ書に対する反対論のごとくに解せらるる点もあるけれども(2:14以下)この両者は各々全く異なれる角度より同一の教理を説明したる独立の議論である。その他ペテロ前書、ヨハネ第一書およびある外典に類似する点よりその間の相互の関係ありと論ずる説があるけれども、この類似は本書簡が主として一般道徳を論ずるより起る自然の類似であると見る方が事実に近いであろう。全体に理論の脈絡なく断片的に種々の教訓を羅列したにすぎない。要するにキリストの時代を離るること遠からざる時代および同一の環境に生じた書簡で、パウロのごとき教理的なる書簡に比して一層ユダヤ的でありかつ四福音書に近い。

 

[本書の認(したた)められし時と場所]主の兄弟ヤコブの著なることを認むる学者の中にも本書簡の認(したた)められし年代につき二説あり。一はこれを紀元四十五年頃と見、他はこれを六十二−六十五年頃と見る。前者は本書簡の中にエルサレム会議(使15:129。ガラ2:9)の影響なきがごとくこと、「教会」の代りに「会堂」 synagogē なる文字を用いしこと、全体の基調が福音書に表われしキリストがその弟子に対する教訓に類似せること等の理由によりその説を主張し、後者はユダヤ人のキリスト者が各地に教会を形成せるに至るには相当の年数を要するものと見、また本書簡をロマ書の影響の下に書かれたものと見て六十二、三年頃と推定している。何れも推定説であって確定することができない。

 本書簡の認(したた)められし場所はエルサレムであることは大多数の意見がほとんど一致している。