緒言

 

[牧会書簡について]テモテ前後書およびテトス書は一括して普通牧会書簡と呼ばれている。その故は、この三書簡はパウロがテモテおよびテトスに、如何にその托されし教会を牧すべきかを教えしことにおいてその目的および内容が一致しているのみならず、その書簡の認(したた)められし当時のパウロの境遇が、他の諸書簡とは異なり、使徒行伝の中に録さるるパウロの生涯の中には、これに相当する環境を見出し得ない特殊のものである点、並びに教会の状態、その教訓、道徳、組織、教理等の点において共通の特徴を有っているからである。それ故にこれを一括して牧会書簡と呼びならしていることは適当である。

 

[牧会書簡の認(したた)められし当時のパウロ]テモテ後書によれば、パウロはその当時ローマにおいて幽囚の身となっていた(Uテモ1:816182:9)。しかしこの幽囚が獄中書簡が認(したた)められし使28:16以下のローマ幽囚と同一にあらざることは、周囲の事情が全く異なっていることから見て疑うの余地がない。すなわちテモテがパウロと共におら(コロ1:1、ピレ1)ずして、エペソに働いており(Uテモ1:23)、裁判の見込みは有望(ピリ1:252:24)ではなく悲観的であり(Uテモ4:6以下殊に18)、パウロと偕に在りしマルコ(コロ4:10)はパウロの許に連れ来らるべきであり(Uテモ4:11)、信仰の兄弟としてパウロと共におりしデマス(コロ4:14。ピレ24)はパウロを棄てた(Uテモ4:9)こと、その他の事情に著しき相違を認むことができ、殊にUテモ1:17によれば、パウロのローマにおける幽囚の場所すらも不明なりしがごとくに思わるること(Z0)もまたこの幽囚が使徒行伝第28章のそれと異なることを示している。その他使28章の終りまでに録さるる処とは異なれる場合にトロアスやミレトやクレテにも到れるもののごとく(Uテモ4:1320。テト1:5)、以上諸種のことを総合する時パウロは使徒行伝に記さるる最後の幽囚より一時釈放せられて西方イスパニヤまで伝道し、さらに東方にも伝道旅行をなし、然る後第二回のローマ幽囚となり、ついに殉教の死を遂げたとの伝説および記録(その最も古いのは九十六年頃に書かれた第一クレメント書)は事実に近いものと思われる。もし然りとすれば、その東方旅行に際しては、テモテ、テトス、エラスト、トロピモ(Uテモ4:20)等を伴い、まずマケドニヤを経て(Uテモ1:3。なおピリ1:262:24)トロアスに渡り、次第に暖かになる季節であったので、そこにカルポの許に外套を遺し置き(Uテモ413)進んでエペソに到り、オネシポロ等の歓待を受け(Uテモ1:18)そこにテモテを遺して(Tテモ13)エペソおよび周辺の伝道に当たらしめ、パウロらはさらに南下してミレトに到りしとき、トロピモが病に罹りしためこれをミレトに留まらしめ(Uテモ4:20)、それより海を渡ってクレテに到り、テトスをそこに遺して(テト1:5)その地に伝道せしめ、さらにアカヤに渡りてエラストをコリントに遺し(Uテモ4:20)、それよりニコポリに赴きて越冬せんと計画しつつ(テト3:12)おそらく未だ実行せざる前にローマの官憲に捕えられてローマに護送せられたのであろう。従ってテモテ前書とテトス書とは就縛以前に(おそらくアカヤより)認(したた)められ(テモテ前書にエラストやトロピモのことが記されていないのは、この書簡の性質上、個人的消息に言及する必要なかりしためならん)テモテ後書はローマの獄中より認(したた)められたのであろう。而してテモテ後書が認(したた)められし頃は、テモテはエペソを出でて巡回伝道(Uテモ4:5)の途にあったもののごとくである(Uテモ4:12註参照)。

 

[パウロの真正書簡なりや]牧会書簡はその信仰、思想の大綱においてパウロ的であることは多くの学者によりて認められることであるけれども、その気分において、またその表顕の方法において、またはその重点の置き処において、他のパウロ書簡と異なる処あるは、何人も容易に認め得る処である。すなわちパウロの四大書簡のごとき戦闘的気迫がなく、また、獄中書簡のごとく深遠なる体験がなく、唯主として教会政治の実際問題が取扱われており、従って霊によるキリストとの交わりを主とする信仰そのものを強調する代りにキリスト者としての生活に関する教訓が主となり、「信仰」の代りに「敬虔」なる語が多く用いられ、律法は信仰の義を破壊する敵ではなく、正しく用いらるべきものとして教えられている等パウロらしさが非常に希薄となっていることは事実として認めなければならない。またUテモ1:1Uテモ1:1。テト1:1等にパウロの使徒職につき殊更に高調せる点はテモテやテトスのごとき親しき弟子たちに対しては不必要に思われ、かつ当時の教会の実状も、テサロニケ前後書、コリント前後書、ガラテヤ書等に見る教会とは異なり、問題は信仰の根本に関するものよりもむしろ牧会上の枝葉の注意が主であり、かつ当時の教会の組織化の程度が他のパウロ書簡に比して相当年月を経過せるもののごとく、これらの諸点より、牧会書簡はパウロの作にあらずして後人が第一世紀の終りに近くこれらの諸教会の現状に適せる書簡を作成し、これに権威を附せんとしてパウロの名においてこれを流通せるものと解する学者も少なくない。

しかしながらもしパウロの第一回ローマ幽囚より釈放せられて各地に旅行せしことおよび第二回ローマ幽囚の事実が根拠なき風説であり、パウロが第一回幽囚後釈放されずして殉教の死を遂げしものとすれば、この書簡を偽造せる者が態々(わざわざ)かかる不合理なる環境にパウロを置くはずがなく、また第二回ローマ幽囚およびその以前の巡回旅行が事実であるとすれば牧会書簡はこの間の消息に最も相応しており、殊にその中に多くの個人的消息(殊にUテモ4:921のごとき、テト3:1214のごとき)もかくして始めて意義あることとなるのみならず、牧会書簡の文学的性格すなわち信仰的闘争精神の少なきことその他上記の諸事実は、これらの書簡の目的が信仰の闘いを為さんがためではなく、老年にしてしかも死を眼前に控えている老闘士が、その活動の後継者たらしむべきテモテおよびテトスに対して、如何にして教会を牧すべきかについて教訓を与えている場合の気分として、自然にかかるものとなったのであると考えることができ、あるいはペテロ前後書のごとく(パウロの諸書簡は大体口授であるが)パウロが大体の主旨を伝えて他人をしてこれらの書簡を書かしめたためであるとも想像することができる。なお一部はパウロの作でこれに後人が追加したのであるとの説も考慮さるべき一説ではあるけれども充分なる証拠力を欠いている。要するに現在における学者の研究による材料をもってしては牧会書簡は如上の性質および目的をもって録されしパウロの書簡であると考うる方が事実に近いであろう。

なお牧会書簡の真正パウロ書簡たる有力なる証拠はポリカルプもすでにこれをパウロの書簡として知っており、その他ムラトリの正経中にもパウロの書簡として加えられていること、その他の教父たちもこれをパウロの作として取扱ったことを挙げることができる。

 

[当時の教会の情勢]当時の教会にはガラテヤ書の場合におけるがごとき、恐るべき律法主義者は無かったけれども多くの偽教師があり、信者を惑わしていた(Tテモ14-741-363-5Tテモ223-2631-5。テト110-133:9その他)。牧会書簡を後代の作と見る学者の間ではこれらの教師がグノシス派の影響を受けたユダヤ主義者であるか、またはユダヤ主義化されしグノシス派であるか等につき議論があるけれども、グノシス派は派として未だ形成せられず、むしろ精神的傾向を強度に有する宗教人の中に何時でも何処でも見出し得る種類の弊風が彼らの中に存在したものと考うべきであろう。

 

[著作の年代および場所]テモテ前書およびテトス書は第一回ローマ幽囚より釈放せられてイスパニヤを経て東方に巡回旅行を試みている旅行中の作と見るべく、すなわち六十三四年頃であり、テモテ後書は第二回のローマ幽囚の中に認(したた)められしもので殉教の直前六十四五年頃の作となる。

 

[テモテについて]テモテは小アジアのルステラの人で父はギリシャ人でおそらく夭死し、ユダヤ人なる母と祖母とより敬虔なる宗教的教育をうけた(使161Uテモ15)。パウロはその第二回伝道旅行に際して彼を伴い、その後パウロの一生涯の間その良き助手であり、パウロは子のごとくに彼を愛していた。パウロの晩年にはテモテはエペソの教会を牧し(Tテモ13)、後には巡回伝道に従事していた形跡がある(Uテモ4512)。なお本書および他の牧会書簡は個人に宛てられているけれども、実は教会の一般に読ませるために書かれたものと見るべきである(1:132:78-15)。