黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第5章

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い 3:21 - 8:39
3-(1)-(1) 義とせらるる事 3:21 - 5:21
3-(1)-(1)-(ニ) 義とせられし事の効果 5:1 - 5:21
3-(1)-(1)-(ニ)-(a) 平安、歓喜、希望の生涯 5:1 - 5:5

註解: 前節の結果を受けてパウロは進んで、義とせられし結果として現在及び将来に於て享有すべき基督者の祝福を論じて居る。

5章1節 ()(われ)信仰(しんかう)によりて()とせられたれば、(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()り、(かみ)(たい)して平和(へいわ)()たり。[引照]

口語訳このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
塚本訳だから、わたし達は信仰のゆえに義とされたのであるから、わたし達の主イエス・キリストによって、いま神と平和ができた。
前田訳かく、信仰によって義とされて、われらは神に対して平和を得ています。これは主イエス・キリストのおかげです。
新共同このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
NIVTherefore, since we have been justified through faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ,
註解: 罪人は神に対して不和敵対の状態にあり神の怒りの下にある。然るに信仰により義とせられ罪を赦されしものは、神の前に義人として恐るる事なしに立つ事が出来る。これ神との間に平和の関係が成立して居るからである。而してこの関係の更新はその結果として内心の主観的平和を来す。これ凡てイエス・キリストの死とその復活とによるのであって、十字架の上に死にて今も生き給う彼によりてのみ我ら恐るゝ事なく神に近づく事が出来る。現在に於けるこの心の平和こそ義とせられし者の無上の幸福である。
辞解
[得たり] echomen は異本「我らをして……不和を得しめよ」 echō とありこの方を採用する説が多いが強てその必要を認めない。

5章2節 また(かれ)により信仰(しんかう)によりて、[(いま)]()つところの恩惠(めぐみ)()ることを()[引照]

口語訳わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
塚本訳そうだ、キリストにより、信仰で、わたし達はいまいるこの恩恵の状態に入ることができ、また(最後の日に)神の(子になることを信じて、その)栄光にあずかる希望を誇っているのである。
前田訳彼のおかげでわれらは今立つところのこの恩恵へ信仰によって入れました。そして神の栄光への希望を誇りにしています。
新共同このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
NIVthrough whom we have gained access by faith into this grace in which we now stand. And we rejoice in the hope of the glory of God.
註解: 前節が現在の状態を叙して居るに対し、本節前半は過去に遡ってその原因を探り、後半「神の栄光を望みて喜ぶなり」はそれが現在に及ぼせる結果を叙述して居る。即ちキリストの贖罪によりて人類の罪が贖われ、自分はこれを信仰を以て受け、斯して過去に於て神の恩恵の中に導き入れられ今日に至って居る。「平和は恩恵の中に永く留って居る状態を云う」(B1)
辞解
[今立つ] hestēkamen は文法上過去に於てその中に置かれて今現にその処に居る事を意味する。
[入る事を得] 原語「導き入れられた」「接近を持った」等過去完了形で、過去に於て入り現在もその処に居る事、日本語はこれ等の時法による意味を示さないことは遺憾である。
[入ること] prosagōgē 「導き入れられる事」「接近する事」等の意味あり他動的に前者の意味に取る方可ならん(M0)。

(かみ)榮光(えいくわう)(のぞ)みて(よろこ)ぶなり。

註解: 私訳「神の栄光の希望に就て誇るなり」未来に関する心持を云って居り、これにより前節及び本節に於て基督者の過去現在未来の心の状態を簡単に言い尽して居る。神に属する栄光はやがて神の子たる基督者たちにも与えらるゝのであって、これが即ち基督者の希望であり、彼らはこの希望につき誇りと喜びとを有って居るのである。
辞解
[喜ぶ] kauchomai は又「誇る」「栄める」等よき意味の誇りを示す語で、確信を持ちつつ力強くこれを表白する事を云う(G1)。Uコリ1:12註參照。

5章3節 (しか)のみならず患難(なやみ)をも(よろこ)ぶ、[引照]

口語訳それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
塚本訳そればかりではない。苦難をも誇る。苦難は忍耐を、
前田訳そのうえ、苦難にあっても誇ります。苦難は忍耐を、
新共同そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
NIVNot only so, but we also rejoice in our sufferings, because we know that suffering produces perseverance;
註解: 基督者は神の栄光の望につきて喜ぶのみならず患難をすら喜ぶ(誇る)。単に患難に耐えるだけならば異教徒にすら可能であるけれども、これをも喜びと誇りとを以て受ける事は基督者にのみ可能である(その故は次にこれを示す)、基督者となりても患難を免れる事は出来ない。否却て多くの患難に襲れる(ヘブ12:1-12)

そは患難(なやみ)忍耐(にんたい)(しゃう)じ、

註解: 「忍耐は患難なしにこれを学ぶ事が出来ない」(B1)。
辞解
[生じ] katergazomai は造り上げる事。

5章4節 忍耐(にんたい)練達(れんたつ)を[(しゃう)じ]、[引照]

口語訳忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
塚本訳忍耐は鍛錬を、鍛錬は希望を生むことを知っているからである。
前田訳忍耐は訓練を、訓練は希望を生むことを承知ですから。
新共同忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
NIVperseverance, character; and character, hope.
註解: 患難を忍耐してこれに打勝つ者は練達せる者であり、試練に合格せる者である。
辞解
[練達] dokimē は dokimion 即ち試金石(雅1:3)を以て試験せられて合格せる者の状態を云う、Uコリ13:5-7註参照。

練達(れんたつ)希望(のぞみ)(しゃう)ずと()ればなり。

註解: 希望に対する熱求とこれを握れる確信は患難を経て練達せる者に与えられし冠である。希望がその最も美わしき姿に於てあらわれ最も多くの慰となるはかかる人である。故に患難を喜ぶ事は結局この希望の喜び(2節)の中に患難が呑まれてしまうからである。

5章5節 希望(のぞみ)(はぢ)(きた)らせず、(われ)らに(たま)ひたる(せい)(れい)によりて(かみ)(あい)われらの(こころ)(そそ)げばなり。[引照]

口語訳そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
塚本訳そしてこの“希望は(必ず実現して、わたし達を)失望させることはない。”神はわたし達に聖霊を授け、それによって愛をわたし達の心の中に(いつも豊かに)注いでいてくださるからである。
前田訳この希望は恥をかかせません。われらに与えられる聖霊によって神の愛がわれらの心に注がれるからです。
新共同希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
NIVAnd hope does not disappoint us, because God has poured out his love into our hearts by the Holy Spirit, whom he has given us.
註解: 前節に確言せられし希望は必ず実現するのであって、決して空頼みに終る事はない。この事は神が我らを愛し給うその愛が我らの心に尽くる事なく注がるゝ事によって明かに知る事が出来る(而して神の愛の注入の仲介者は我らに与えられし聖書に外ならない)。かく神が我らを愛し給う以上その栄光(2節)を我らに拒み給う筈が無い。これによりてパウロが1、2節に述べし平和も希望も皆この神の愛より出づる事を明かにして居る事に注意すべし。而して次節以下にこの愛が如何にして顕われしかを叙述する。尚1-5節の中に信、望、愛、神、キリスト、聖霊の三位、平安、恩恵、希望、歓喜等の重要なる真理につき録されて居る事に注意すべし。
辞解
[注げばなり] 「注がれたればなり」で過去に於て注がれその状態が今も継続する完了形の動詞。

3-(1)-(1)-(ニ)-(b) かかる生涯はキリストの賜物なり 5:6 - 5:11

5章6節 我等(われら)のなほ(よわき)かりし(とき)、キリスト[(さだま)りたる]()(およ)びて、敬虔(けいけん)ならぬ(もの)のために()(たま)へり。[引照]

口語訳わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
塚本訳なぜなら、わたし達がまだ弱くあったとき、当時まだ不信心者の(わたし達の)ために、キリストは死んでくださったからである。
前田訳キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。
新共同実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
NIVYou see, at just the right time, when we were still powerless, Christ died for the ungodly.
註解: キリストの愛はかくも深く又神の御旨によるものであった。彼は弱くして罪を犯す我らをも捨て給わず、かかる不敬虔にして神に叛く者をも愛し、その為には神の定め給いし日に十字架につき給うた。
辞解
[なほ] eti は原本に混乱あり、
[定りたる日に及び] kata kairon は直訳「時に及びて」となり「神の定め給いし日」叉は「適当なる日」を意味す。この二つの意味を含むと見る事を得べし。

5章7節 それ義人(ぎじん)のために()ぬるもの(ほとん)どなし、仁者(じんしゃ)のためには()ぬることを(いと)はぬ(もの)もやあらん。[引照]

口語訳正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
塚本訳(驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。
前田訳義人のために死ぬものはほとんどありません。善人のためには、あるいはいのちを惜しまぬものがあるでしょう。
新共同正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
NIVVery rarely will anyone die for a righteous man, though for a good man someone might possibly dare to die.
註解: 他人の為に死ぬる事はそれがたとい正義の士の為でも殆んど絶無であり、それが善人且つ親切なる人である場合すら稀にあるに過ぎない。これを見ても次節のキリストの死の意義が如何に特異であるかを知る事が出来るであろう。
辞解
本節の義人 dikaiou と仁者(直訳善人) tou agathou との間に、(1)意味の差別ありや、(2)差別ありとすれば如何なる意味に差異ありや、(3)男性か中性か、(4)何故後者にのみ冠詞ありや等について種々の解釈あり。ここに詳論をさけて改訳の解釈をそのまま採用した(I0、Z0、E0)。
[▲厭(いと)わぬ] tolmaōは「敢えてする」の意。

5章8節 ()れど我等(われら)がなほ罪人(つみびと)たりし(とき)、キリスト我等(われら)のために()(たま)ひしに()りて、(かみ)(われ)らに(たい)する(あい)をあらはし(たま)へり。[引照]

口語訳しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
塚本訳しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。
前田訳しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。
新共同しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
NIVBut God demonstrates his own love for us in this: While we were still sinners, Christ died for us.
註解: ヨハ3:16。罪の為に死の罰を受くべき我らの為に却ってキリストは死に給うた。これこそ空前絶後の愛であり真の愛そのものである(Tヨハ4:9)。敵をも愛しその為に死に得ざるものは真の愛ではない。ここにキリストの愛と神の愛とが混同せられて居る処にパウロの信仰の姿を見る事が出来る。パウロに取りては神とキリストは分離し得ざる信仰の対象であった。
辞解
[あらわし給えり] のあらわす sunistē は「薦める」「示す」等の意、
[給えり] 「給う」とすべし、現在動詞。

5章9節 ()(いま)その()()りて(われ)()とせられたらんには、まして(かれ)によりて(いかり)より(すく)はれざらんや。[引照]

口語訳わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
塚本訳それならばキリストの血で義とされている今、わたし達がキリストによって(最後の日の神の)怒りから救われるのは、もちろんである。
前田訳まして、彼の血で義とされた今、彼によって怒りから救われるはずです。
新共同それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
NIVSince we have now been justified by his blood, how much more shall we be saved from God's wrath through him!
註解: キリストの死は我らを義とする原因であり、これによりて既に義とせられし以上は活きて神の右に在し給うキリストは世の終りに於て我らの上に降るべき審判につき我らを護り神の怒より我らを救い給うであろう。キリストの愛は永遠に及ぶ(8:34)故に我らはこの愛に在りて絶対に安全であり平安である。
辞解
[怒] 最後の審判に際して神の発し給う怒(2:5、6。Tテサ1:10。Uテサ1:8、9)。
[救ふ] 救の意義に種種あり、罪の支配より救出さるゝ事(現在)、神の怒によりて滅ぶべき場合より救出さるゝ事(未来)。本節の場合はこの後者に属す。

5章10節 我等(われら)もし(てき)たりしとき御子(みこ)()()りて(かみ)(やわら)ぐことを()たらんには、まして(やわら)ぎて(のち)その生命(いのち)によりて(すく)はれざらんや。[引照]

口語訳もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
塚本訳なぜなら、(神の)敵であったのに、その御子の死によって神と和睦ができたくらいならば、すでに和睦をしたわたし達が、御子の(復活の)命によって救われるのは、もちろんである。
前田訳敵でありながらみ子の死によって神と和解したのならば、まして和解したわれらはみ子のいのちによって救われるはずです。
新共同敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
NIVFor if, when we were God's enemies, we were reconciled to him through the death of his Son, how much more, having been reconciled, shall we be saved through his life!
註解: 我ら罪に居る間は神と敵対関係に立って居り、神の怒りの下にある。然るにこの関係を脱して神と和らぐ事が出来、神の怒が和らげられたのは(第1節)キリストの死の結果であった。キリストの死がかくも神の心を和らげて敵をも味方たらしめる力があるならば、況やキリストの生(活きて神の右に在し、我らの為に執成し給う事)は既に神との間に平和が成立せる我らを更に最後の救の完成に到達せしむる力が無い筈はない。救はキリストの死と生とによりて階段的に完成に至る。
辞解
「敵」「和らぎ」等の語が人間の方の心持を云うかにつき論争あり。敵となりしはアダムの罪に始まる故、人が始めであり和らぎしはキリストの死による故、神に始まる。併し相互の関係より見れば一方のものにあらず双方の事実である(E0)。10節は9節の詳述である(G1)。
[▲生命によりて] 「生命にありて」で神の生命と一つになって居る事。

5章11節 (しか)のみならず(いま)われらに和睦(やはらぎ)()させ(たま)へる(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()りて(かみ)(よろこ)ぶなり。[引照]

口語訳そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
塚本訳そのことばかりではない。主イエス・キリストによって今すでにこの和睦を得たわたし達は、彼によって神を誇るのである。(自分を誇らない。キリストを誇り、神を誇る。)
前田訳そのうえ、主イエス・キリストによって今和解を受けたわれらは、彼によって神を誇るのです。
新共同それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
NIVNot only is this so, but we also rejoice in God through our Lord Jesus Christ, through whom we have now received reconciliation.
註解: ただに将来に於て救を得るのみならず(10節)今現に我ら神にありて誇りつつ生きる事が出来る偉大なる特権の所有者である(Tコリ1:31)。而してこの歓喜に充てる誇りは、キリストによりてのみ与えらるヽ処のものであって、彼によりて今我らは神との和らぎを得て居るからである。
辞解
[喜ぶ] に就ては2節辞解参照。

3-(1)-(1)-(ニ)-(c) アダムとキリスト 5:12 - 5:21

5章12節 それ一人(ひとり)(ひと)によりて(つみ)()()り、また(つみ)によりて()()()り、(すべ)ての(ひと)(つみ)(をか)しし(ゆゑ)に、()(すべ)ての(ひと)(およ)べり。[引照]

口語訳このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
塚本訳(この救いはキリストとアダムとを比較する時に、はっきりする。)すなわち、一人の人(アダム)によってこの世に罪が入ってき、罪によって死が入ってき、こうして、(この人において)人は一人のこらず罪を犯したので、全人類に死が行き渡ったように──([一八節ニツヅク]一人の人キリストの正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。)
前田訳それで、こういえます。ひとりの人によってこの世に罪が入り、罪によって死が入りました。こうして、すべての人が罪を犯したので、すべての人に死が行きわたりました。
新共同このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
NIVTherefore, just as sin entered the world through one man, and death through sin, and in this way death came to all men, because all sinned--
註解: 私訳「それ故に一人の人によりて罪は世に入りまた罪によりて死〔は世に入り〕、かくして死は凡ての人に及び、かかる事情の下に凡ての入罪を犯したり」。12-21節に於てパウロはアダムとキリストとを対照して、前者によりて罪と死が世に入り反対に後者によりて義と永生が世に来り、全人類に及べる事を説明して、イエスによりて義とせられ救わるゝ事の意義を明かにして居るのである。「一人の人」はアダムで(エバはアダムの中に含まれしものと見る)彼の罪によりて罪なるものが世界に始めて入り来り、又その結果として死が同時にこの世に入って来た。若しアダムが罪を犯さざりしならば、彼の肉体は或はそのまま不死であるか又は不死の体とされたであろう。人間に取りて死は本来変態である。而してアダムの罪の結果は、全人類に死を来らしめたのである(これが当時の一般の信念であった)。而してかかる状態の下に於て人は皆罪を犯した。これがアダムの子孫たる全人類の実状である。この一節は註解学上の最難関である。
辞解
[それ故に] 前数節を受けて居るけれどもこの数節は救に関する重要問題の要約故、思想としては1:18以下の全体を受けて居ると見る事が出来る。
[入る(eiserchomai)、及ぶ(dierchomai)] 前者は進入する事、後者は浸潤する事を意味す。
[凡ての人罪を犯しゝ故に] 私訳「かかる事情の下に凡ての人罪を犯したり」(Z0、私訳)は註解学上の難関で無数の学説あり、eph'hō を「故に」と訳する時は人々の死が過去に於て各々が犯しヽ(不定過去形)罪の結果となる如くに解せられ、全体の論理に違反し且つ嬰児等に当てはまらず、その他これと大同小異の種々の解釈あれど皆幾分の困難あり、夫故にZ0の説に従い、且つこの二語が用いられし他の個所(Uコリ5:4。ピリ3:12。4:10)をも考察して「かかる事情の下に」又は「これに加えて」と訳し凡ての人の罪を犯すより以前に既に死の支配の下にある事を示す。
[罪を犯したり] 不定過去形で、これを「罪性を有せり」等の如き意味(C1)に取る事は出来ない。
[死] 聖書に於て(1)肉体的の死、(2)道徳的の死、(3)永遠の死を意味するけれども、これらの凡ては結局に於て相関連せる一体の事実であると云う事が出来る。

5章13節 律法(おきて)の[きたる](まへ)にも(つみ)()にありき、されど律法(おきて)なくば(つみ)(みと)めらるること()し。[引照]

口語訳というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
塚本訳なぜか。(律法のない時代、つまりアダム以後モーセ)律法(のできる)までの間にも、罪はこの世にあったが、律法がないので、(たとえ罪に当たることをしても、)罪はその人の責任に帰せられ(ず、死の罰は受け)ないはずである。
前田訳律法以前にも罪はこの世にありましたが、律法がなければ罪は数えられません。
新共同律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
NIVfor before the law was given, sin was in the world. But sin is not taken into account when there is no law.

5章14節 (しか)るにアダムよりモーセに(いた)るまで、アダムの(とが)(ひと)しき(つみ)(をか)さぬ(もの)(うへ)にも()(わう)たりき。[引照]

口語訳しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
塚本訳それにもかかわらず、アダムからモーセまでの間に、アダムと同じ(律法)違反の罪を犯さなかった(その時代の)人たちの上にも、死が王として支配したからである。(従ってこの罪と死とがアダムによるものでなくてなんであろう。そして一人の人の行いが全人類に影響を及ぼす点において、)アダムは来るべき者(である新約のアダム、すなわちキリスト)の型である。
前田訳しかし、アダムからモーセまで、アダムの背きと同じ罪を犯さなかった人々の上にも、死は王でした。アダムは来たるべきものの型なのです。
新共同しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
NIVNevertheless, death reigned from the time of Adam to the time of Moses, even over those who did not sin by breaking a command, as did Adam, who was a pattern of the one to come.
註解: 原罪説の証拠たるべき箇所で註解にして議論多き節である。大意は、モーセの律法が与えらる前、即ちアダムよりモーセに至る迄の期間にも歴史上の事実として罪は世の中に存在して居った。この事は旧約聖書の歴史がこれを証明する。併し乍ら神は律法なき時の罪をば、律法を与えられし後の罪と同様の意味の罪として(即ち神の命令の積極的違反、アダムの罪の如き罪として)数え給わない。従って律法なき場合の罪は死を以て報いらるべきではない。然るに(14節)事実はこれと反対で、アダムよりモーセに至る迄の無律法の期間に、アダムの咎に等しき積極的の神の命令違反の罪を犯さぬ者の上にも死は一様に支配して居った。この事実は何を示すか、取りも直さずアダム一人の罪によりて死が万人に及び、万人が罪人と認められた事の証拠である。この原理がキリスト一人の義によりて生命が万人に及ぶ事の論拠となる。
辞解
[認めらる] ellogeomai は logizomai と同意義、「数えらる」「帳溥に記入せらる」との意、この場合「人が罪として数えない」(C1)との意味に解する説と「神が罪として数えない」との意味に解する説とあり後者を取る。
[等しき] 「類似せる」意。
[王たりき] 「支配したり」

アダムは(きた)らんとする(もの)(かた)なり。

註解: 来らんとする者はキリスト第二のアダム(Tコリ15:45)であって、第一のアダムはその型である。即ち12-14節は15節以下のキリストの救を証明する型となる(型タイプに就てはTコリ10:13要義2参照)

5章15節 されど恩惠(めぐみ)賜物(たまもの)は、かの(とが)(ごと)きにあらず、一人(ひとり)(とが)によりて(おほ)くの(ひと)()にたらんには、まして(かみ)恩惠(めぐみ)一人(ひとり)(ひと)イエス・キリストによる恩惠(めぐみ)賜物(たまもの)とは、(おほ)くの(ひと)(あふ)れざらんや。[引照]

口語訳しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
塚本訳しかし(神の)賜物は(アダムの)過ちと同じではない。なぜなら、一人の人(アダム)の過ちによってすら多くの人が死んだくらいであるから、まして神の恩恵と一人の人イエス・キリストによる恩恵の賜物とが、多くの人に満ちあふれるのはもちろんである。
前田訳しかし(神の)賜物は過ちのごとくではありません。ひとりの人の過ちによってさえ多くの人が死んだのなら、まして神の恩恵とひとりの人イエス・キリストによる恩恵の賜物とが多くの人々に満ちあふれるわけです。
新共同しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
NIVBut the gift is not like the trespass. For if the many died by the trespass of the one man, how much more did God's grace and the gift that came by the grace of the one man, Jesus Christ, overflow to the many!
註解: これよりアダムとキリストとを対比してその同一点と後者の優越点を示す、即ちアダムの咎すらも全人類に及び死が万人を支配するに至ったとすれば、況して咎とは比すべくもなき神の恩恵の賜物、即ちキリストを賜える神の恩恵とキリストの恩恵による罪の救の賜吻とは全人類の上に溢れない筈はない。かくの如く咎と恩恵とは何れも一人の人より全人類に及ぶ点に於て同一である。けれども、その豊富さに於て恩恵は遥に咎にまさる。
辞解
[恩恵の賜物] charisma は聖霊によりて人々に与えらるゝ種々の能力才能を指す場合あれど、(12:6。Tコリ12:4、31等)ここではキリストによりて与えらるる罪の赦し永生等を指す。
[イエス・キリストによる恩恵の賜物] 「イエス・キリストの恩恵による賜物」と訳すべきである。
[多くの人] 「凡ての人」と云うに同じく一人と相対立する。
[溢れる] 水が器物を溢れ出づる姿。
[況して] 咎は小にして有限なる行為、恩恵は神より来りて無限であるから。

5章16節 (また)この賜物(たまもの)(つみ)(をか)しし一人(ひとり)より(きた)れるものの(ごと)きにあらず、審判(さばき)一人(ひとり)よりして(つみ)(さだ)むるに(いた)りしが、恩惠(めぐみ)賜物(たまもの)(おほ)くの(とが)よりして()とするに(いた)るなり。[引照]

口語訳かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
塚本訳なお、(キリストの)賜物と一人の罪を犯した人の場合とは、同じではない。なぜなら、一人の人(の罪)に対する(神の)裁きは、(多くの人に)死の宣告を下したのであるが、(神の)賜物は、多くの(人をその)過ちから(救い出して)義とするからである。
前田訳賜物はひとりの人が罪を犯した場合のごとくではありません。ひとりの人への裁きは処刑になりましたが、賜物は多くの過ちを義(無罪)にしました。
新共同この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
NIVAgain, the gift of God is not like the result of the one man's sin: The judgment followed one sin and brought condemnation, but the gift followed many trespasses and brought justification.
註解: 又神及キリストの恩恵の賜物と、アダムより出づる罪の呪とはその効果の及び方に重大なる差がある事に注意しなければならない。即ち神が人を義とし給う賜物は罪を犯しゝ一人より呪が全人類に及んだ場合の如く不吉不幸なものではない。その故は審判の場合に於ては一人の罪が全人類に及んで全人類が罪に定められ、滅亡の宣告を受けるけれども、恩恵の場合に於ては多くの人の罪が取除かれて義の宣告を受くるに至るからである。即ち前者の場合は多くの罪が附加えられ後者の場合は多くの罪が取除かれる。かくの如く罪と恩恵とはその影響の及ぼし方とその結果とを異にする、即ち罪は伝染病の如く一人より全人類に悪が蔓延し、反対に恩恵は全人類より罪を取去る。而して罪は死の宣告を来し恩恵は義の宣告を与える。
辞解
[審判は一人より] を「一つの咎より」と読む説あり、「多くの咎より」を「多くの人の咎より」と読む説あり、これによりて種々の解を生ずるけれども、その差異は重大ではない。唯パウロが本節に如何なる点を対照、コントラストの中心としたかについては諸説あり、15節は一人より全人類に及ぶ点を中心として両者の異同を論じ、本節は罪の宣告と義の宣告とを中心としてこれを為したるものと見るべきであろう。即ち15節はアダムとキリストの影響の範囲、本節はその影響の性質を対比したものである。
[義とする] dikaiōma は「義の宣告」の意。尚本節には krima と katakrima 、 charisma とdikaiōma との如き同義語尾による対比あり、簡潔にして強き文章である。

5章17節 もし一人(ひとり)(とが)のために一人(ひとり)によりて()(わう)となりたらんには、まして恩惠(めぐみ)()賜物(たまもの)とを(ゆたか)()くる(もの)は、一人(ひとり)のイエス・キリストにより生命(いのち)()りて(わう)たらざらんや。[引照]

口語訳もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
塚本訳一人の人によって、すなわち一人の人(アダム)の過ちによってすら死が支配するようになったくらいであるから、ましてあふれるばかりの恩恵と義とされる賜物とを戴いた者が、一人の人イエス・キリストにより(永遠の)命をもって支配するのは、もちろんであるからである。──
前田訳ひとりの人によって、すなわちひとりの人の過ちによってさえ死が王となったのなら、ましてあふれる恩恵と義の賜物とを受けるものは、ひとりのイエス・キリストによっていのちのうちに王となるわけです。
新共同一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
NIVFor if, by the trespass of the one man, death reigned through that one man, how much more will those who receive God's abundant provision of grace and of the gift of righteousness reign in life through the one man, Jesus Christ.
註解: 15、16節を受け更にそこに対比せられし二者の差異が本節に於て高調せられて居る。即ち一人の人アダムの罪のためにアダムと同じ罪を犯さない人でも皆死の奴隷となり、死は彼らを支配した位である。況んやキリストの贖によりて信仰を以て恩恵と義の賜物とを豊に受くる者は、死の奴隷たる状態より解放せられ、やがて来るべきキリストの国に於ては永遠の生命にありて支配するであろう。アダムの場合に於ては人類の上に死が支配し、キリストの場合は彼によりて人類は生命にありて支配者となる。この重大なる変化に注意しなければならない。
辞解
[王となる] 支配する事。「死が王となる」に対し「生命が王となる」と云うべきが如くに見え乍ら「生命にありて又は生命によりて(21節参照)王たらざらんや」と云える所以は信仰による新生命を得し者はこの偉大なる変化を受けて支配力を得、本節前半に思想上含まるゝ観念、即ち人は死の下に奴隷となって居った事に対する対照をなして居ると見るべきである。
[義の賜物] 神は信ずる者にその義を与え給う。

5章18節 されば(ひと)つの(とが)によりて(つみ)(さだ)むることの(すべ)ての(ひと)(およ)びしごとく、(ひと)つの(ただ)しき行爲(おこなひ)によりて()とせられ生命(いのち)()るに(いた)ることも、(すべ)ての(ひと)(およ)べり。[引照]

口語訳このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
塚本訳従って、一人の人の過ちによって全人類に死の宣告が下されたと同じに、一人の人の正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。
前田訳したがって、ひとりの人の過ちによってすべての人が処刑されたように、ひとりの人の義によってすべての人にいのちの義が与えられました。
新共同そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
NIVConsequently, just as the result of one trespass was condemnation for all men, so also the result of one act of righteousness was justification that brings life for all men.
註解: 18、19節によりて12節以下の全体を要約して居る故「されば」は12節以下を受けて居る。本節の大意はアダムの罪によりて全人類が死ぬべき罪人と宜告せられしと同じく、キリストの一の義(なる行為)によりて全人類が生命に至る義を与えられたとの意味である。即ち全人類の救に関する嘉信である。但しこれを受くるや否やは各人の信仰によるのであって人はその不信仰の故にこの神の恩恵を失う事は勿諭である。
辞解
[一つの] を「一人の」と読むべしとの説あり、又かく読む事も出来るけれども本節の場合、次節との対比上「一つの」が適当であろう。
[正しき行為] dikaiōma は16節の場合と同じく「義の宣告」の意味に解する学者があるけれども(M0、I0)本節では「咎」 paraptōma に対して「義しき事柄」即ちイエスの従順の全生涯と見るべきである(G1、Z0、A1、B1)。dikaiōma は邦訳聖書に種々の訳を持って居るけれども(ルカ1:6。ロマ1:32。2:26。5:16。8:4。ヘブ9:1、10。黙15:4.19:8)何れの場合でも「神が正しと認め給う事柄」を意味する事に於て共通である。

5章19節 それは一人(ひとり)()從順(じゅうじゅん)によりて(おほ)くの(ひと)罪人(つみびと)とせられし(ごと)く、一人(ひとり)從順(じゅうじゅん)によりて(おほ)くの(ひと)義人(ぎじん)とせらる[る](れば)なり。[引照]

口語訳すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
塚本訳すなわち、一人の人の不従順によって多くの人が罪人になったように、一人の人の従順によっても多くの人が義人になるのである。
前田訳すなわち、ひとりの人の不従順によって多くの人が罪びとになったように、ひとりの人の従順によって多くの人が義人になりましょう。
新共同一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
NIVFor just as through the disobedience of the one man the many were made sinners, so also through the obedience of the one man the many will be made righteous.
註解: 神に対しては不従順は罪の別名、従順は義の別名とも見る事を得(1:5辞解参照)本節は前節の理由の詳述であって、アダムの罪の為に多くの人、罪人の資格を得る如く(その証拠は万人が死の奴隷となって居る事を以て知る事が出来る、12節)一人の人キリストの従順の生と従順の死(ピリ2:8)とによりて多くの人、義人の資格を得るに至ったのである。アダムは旧き人の初祖、キリストは新しき人の初祖である。何故に又如何にしてかくなるかについてはパウロは説明を与えて居ない。これ信仰による知識である。
辞解
[罪人−義人とせらる] のせらるはkathistēmi なる語を用い「指定する」「任命する」等の如き意味の語である。その資格を獲得する事。
[多くの人] 前節の「凡ての人」と同義。

5章20節 律法(おきて)(きた)りしは(とが)()さんためなり。されど(つみ)()すところには恩惠(めぐみ)彌増(いやま)せり。[引照]

口語訳律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
塚本訳(それなら律法は人を義として永遠の命を与えるためには役立たないのか。その通り。)律法は、過ちを増し強めるために第二義的に来たのである。しかし(神に感謝する、人の犯す)罪が増し強まれば、恩恵は豊かにあふれる。
前田訳律法が入ってきたのは過ちが増すためです。しかし、罪が増すところ恩恵が満ちあふれました。
新共同律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
NIVThe law was added so that the trespass might increase. But where sin increased, grace increased all the more,
註解: アダムとキリストとの関係を諭じ終って当然問題となり得べき事は、その間に与えられしモーセの律法の意義であった。若しキリストの贖によりて功なしに義とせらるゝならば、律法を厳格に守る事の努力は空しき労であり、律法を与えられし事は無意味であった事となるやと云うに然らず、パウロの解釈によれば律法が与えられたのはアダムの咎の上に更に各人にその罪業を増し、自己の罪の甚だしき事を自覚せしめんが為であった。併し乍らこれ結局神の愛の御旨であって罪が増すに従い、これを赦さんとするの恩恵もその以上に増加して来た、故に律法の為に苦しんだ事は決して無益ではなく恩恵による罪の赦を知る上に一層必要であった事がわかる。
辞解
[来りしは] の原語 は「更にこれに加わり来りしは」との意。
[咎] paraptōma は個々の罪の行為を指し「罪業」と訳す事を得。
[罪] hamartia 個々の具体的の罪行のみならず抽象的根本的罪念にも用う。

5章21節 これ(つみ)()によりて(わう)たりし(ごと)く、恩惠(めぐみ)()によりて(わう)となり、(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()りて永遠(とこしへ)生命(いのち)(いた)らん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。
塚本訳これは罪が死を持って支配したように、恩恵も義をもって支配し、わたし達の主イエス・キリストによって、(わたし達を)永遠の命に入れるためである。
前田訳それは、罪が死をもって王であったように、恩恵も義をもって王となり、われらの主イエス・キリストによって永遠のいのちへ導くためです。
新共同こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
NIVso that, just as sin reigned in death, so also grace might reign through righteousness to bring eternal life through Jesus Christ our Lord.
註解: 神の恩恵によりて義とせらるゝまでは罪が人類を死を以て支配した、即ち人類は罪の奴隷となり死を脱する事が出来ず、死の中に幽閉されて居った。然るに神の恩恵が義によりて支配するに及び、換言すれば恩恵によりて人類は罪が赦されてキリストの義が彼らを支配するに及び、彼らは死に打勝ちその範囲を脱して永遠の生命に人る事が出来るのである。これ恩恵の支配の目的であった。
辞解
[死によりて] en は「死を用いて」(M0)と見るよりも「死の範囲に於て」と見るを可とす(G2、Z0、B1)。
[王たり] 支配する事。
要義1 [アダムの原罪説に就て] アダムの罪の為に万人が死ぬべきものとなり、万人が罪を犯すに至ったと云う原罪説には種々の困難がある。(1)人類が完全の状態より堕落せりと云うは進化論と調和しない。(2)他人の罪の結果を引受ける事は人は自己の行為のみに対して責を負う事の倫理学上の原則に反する。(3)アダムの罪の為に凡ての人罪を犯さヾるべからざるに至つたと云うのは意思の自由の原則に反する。(4)死は生理的普遍現象にして罪の結果にあらず、等の反対論、を予想する事が出来る。併し乍ら(1)人類は智的方面の進化があるにしても人間性の本質に於ては進化を証明する事が出来ず。(2)人間社会の連帯関係は非常に密接であって、望むと望まざるとに関らず他人の行為叉は生活の結果を自已に引受けざるべからざる場合は無数に存在し、(3)意思の自由と云うも決して絶対に自由にあらず、我らの遺伝、環境、教育、時代等に支配せられ、その範囲内の自由に過ぎない。而して(4)人間の精神と肉体との密接不離の関係を見るならばアダムの不従順により生じたる精神的大欠陥は本来不死なりし肉体に死を及ぼしむと考える事も大なる不合理ではない。何れにしても人類が一人として死なざるものなく、罪なきものなきに関らず、一人としてその中に神性を蔵せざるものなき事実の証明としてアダムの原罪説は最も事実に即したるこれも深き人性の解釈である。
要義2 [キリストの贖罪の普遍的効果に就て] 一人の人イエス・キリストによりて万人罪を赦されるのは如何なる理由によるか、答(1)神の御心に変化が起ったからであって、キリストの十字架上の死によりて人類の罪に対する神の怒は凡て解消して神は人類の罪を凡て赦し給える事。(2)これを信ずる者は何人たるを論ぜずその生活に全き変化が生ずる事。(3)人間の能力価値の差異が全く問題とならずして凡て一様に罪の赦を得る事。(4)罪の赦がイエスの思想に基礎を置かずしてその十字架なる事実に基礎を置く事等を挙げる事が出来る。

ロマ書第6章
3-(1)-(2) 潔めらるる事 6:1 - 8:17
3-(1)-(2)-(イ) バプテスマによる死と生 6:1 - 6:11

註解: キリストの十字架の贖罪によりて功なくして義とせらるヽに至った者はその結果不道徳に陥るやと云うに然らず。彼らは義とせられし当然の結果としてその行為も亦潔めらるるに至る。併し乍らこれは律法の行為とは全く異れる原則に基く。

6章1節 されば(なに)をか()はん、恩惠(めぐみ)()さんために(つみ)のうちに(とどま)るべきか、[引照]

口語訳では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
塚本訳それでは、どういうことになるのだろうか。(罪が増せば恩恵も豊かになるならば、)恩恵が増し強まるために、わたし達は罪(の生活)を続けるべきであろうか。
前田訳それならわれらは何といいましょう。恩恵が増すために罪にとどまるべきですか。
新共同では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
NIVWhat shall we say, then? Shall we go on sinning so that grace may increase?
註解: 若し人が以上の如くにして(1:18-5:21)義とせらるるものならば「されば」我ら何と云うべきか。即ち人が律法の行為なしにキリスト・イエスの贖によりて義とせらるるならば(1:18-5:21)行為には全く無頓着であってよい訳ではないか、又若し罪の増す処恩恵も増すと云うならば(5:20)却て罪のうちに止まっていよいよ多く恩恵を受ける方がよい訳ではないか――と云うのがパウロが仮に自己を信仰の真義を理解せざる人の立場に置いて考えた議論である。パウロの「信仰」なる語の意義をパウロの解した様に解しない者は往々にしてかゝる結論を引出し、又は事実かゝる状態に陥る。

6章2節 (けっ)して(しか)らず、[引照]

口語訳断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
塚本訳もちろん、そうではない。わたし達は罪との関係ではすでに死んでいるのに、、どうしてなお罪の中に生きていられよう。
前田訳断じて否です。罪に対して死んだわれらが、どうしてその中に生きえましょう。
新共同決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
NIVBy no means! We died to sin; how can we live in it any longer?
註解: 非常に強き否定の語。

(つみ)()きて()にたる(われ)らは(いか)(なほ)その(うち)()きんや。

註解: キリストの贖罪により信仰によりて義とせられし者は、罪に対する関係より見れば事実死んだものである。即ち罪の奴隷であった旧き人、律法によりてはこの奴隷たる状態より脱し得ざりし弱き人が、キリストと共に死に(3、4節註参照)、罪との関係はこれによりて全部清算せられ全く罪とは縁なきものとなってしまった。かゝるものが罪の中に止まりその中に生きる筈がなく、又かかる事は不可能事である。但しこれは罪との関係即ち意思の問題であって、信仰に入ったものの肉に罪を犯す可能性が全然無くなったと云う意味ではない。根本的の罪、アダムの罪、即サタンに服従して居る人間の状態が死滅し清算されたと云う事である。6、7章はこの状態に関して各方面よりこれを説明して居る。先ず第一にパウロの取り来りし例はバプテスマである。

6章3節 なんじら()らぬか、(おほよ)そキリスト・イエスに()ふバプテスマを()けたる(われ)らは、その()()ふバプテスマを()けしを。[引照]

口語訳それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
塚本訳それともあなた達は知らないのか、キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達はみな(彼のものになって、)彼の死へと洗礼を受けたのである。
前田訳それとも、あなた方は知りませんか、キリスト・イエスへと洗礼されたわれらは、皆彼の死へと洗礼されたことを。
新共同それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
NIVOr don't you know that all of us who were baptized into Christ Jesus were baptized into his death?
註解: 直訳「又汝ら知らぬかキリスト・イエスの中に沈められし我らは、何れも、彼の死の中に沈められし事を」パウロはバプテスマの形式(水中に浸す礼)を取りて信仰の事実を説明し、形式そのものよりもその中に含まるる信仰上の意義を高調して居る。即ちバプテスマは形式としては水の中に沈められる事であるけれども、それは信仰によりてキリストの中に沈められキリストと人格的霊的合一の状態に入った事を示すのである。而してキリストとの霊的帰一は当然彼の死(受難、十字架、埋葬、復活を含める広義の死の事実)との霊的合一を意味する。従ってバプテスマを受けし基督者は彼の死の中に没入(バプテスマ)し自らもキリスト・イエスの死を死んだ事を意味す、この霊的の死の内容は次節以下に設明する処によりて明かである。
辞解
[バプテスマを施す] baptizō は「水中に沈める事」「水を以て充分に潤おす姿」「酒が全身に回って居る姿」「人民が市街に殺到する姿」等を意味する。これより転じてバプテスマの式を施す事を意味す。本節の場合もパウロはこの式を意味しつつその内容に重きを置いて居る事に注意しなければならぬ。

6章4節 (われ)らはバプテスマによりて(かれ)とともに(はうむ)られ、[その]()(あは)せられたり。これキリスト(ちち)榮光(えいくわう)によりて死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせられ(たま)ひしごとく、(われ)らも(あたら)しき生命(いのち)(あゆ)まんためなり。[引照]

口語訳すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
塚本訳だからこの死への洗礼によって、彼と一しょに(死んで一しょに)葬られたのである。これはキリストが父上の栄光によって死人の中から復活されたように、わたし達も(復活して)新しい命をもって歩くためである。
前田訳実に、死への洗礼によってわれらは彼とともに葬られたのです。それは、父の栄光によってキリストが死人の中から復活されたように、われらも新しいいのちに歩むためです。
新共同わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
NIVWe were therefore buried with him through baptism into death in order that, just as Christ was raised from the dead through the glory of the Father, we too may live a new life.
註解: キリストと基督者との霊的一致は、ただにその死とその埋葬に就てのみならず、その復活に就ても亦同様である。バプテスマは埋葬の型であり従ってバプテスマを受けし基督者はその信仰に於て、キリストと共に葬られ死の状態に確実に入ったものである――実際キリストを信じ彼と霊に於て一となれるものに取っては、キリストの死は自己の死である――併し乍らこれ永久にこの状態に於て終らんが為ではなく、甦らんが為である。キリスト復活して今も尚活きて働き給うと同じく、基督者なる我らも亦霊的に復活してこの新生命によりて歩み、かくして潔めを全うせんが為に外ならぬ。即ち聖潔の原理はバプテスマの示すが如く、死して甦り給えるキリスト・イエスとの霊的結合一致に在る。
辞解
[その死に合せられたり] 原文に「その」を欠く故にキリストの死にあらず一般に「死」を意味す、従て「死に到れり」等と訳すべきである(M0、Z0)。これを「死に到るバプテスマ」と訳して「バプテスマ」の形容句と見る説あれど(B1、G1)探らない。
[父の栄光により] キリストの復活は父なる神の万能の働きによる。而して死の暗黒に打勝ちて神はその栄光をあらわし給う(ヨハ11:40)。
[新しき生命] 原語は「生命の新しさ」で「旧生命」に対する「新生命」の方面よりも「死」に対する生命の新しさを強調す。
[▲歩む] 単に「生きる」意味ではなく、「行動する」事。従って口語訳は不適当である。

6章5節 (われ)ら[キリスト]に()がれて、その()(さま)にひとしくば、その復活(よみがへり)にも(ひと)しかるべし。[引照]

口語訳もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
塚本訳なぜなら、わたし達が(洗礼によって)彼と合体してその死にあやかる者になった以上、復活にもあやかるのは当然だからである。
前田訳もしわれらが彼の死の形にならって彼と合わさるならば、復活の形においてもそうでしょう。
新共同もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
NIVIf we have been united with him like this in his death, we will certainly also be united with him in his resurrection.
註解: 4節を更に進んで説明して居る。即ち基督者はキリストの死により彼と同じ死を経験し、彼の死に類似せる姿が自然に自己の中に発育するに至ったとするならば、同様にキリストの復活に類似せる姿も彼に備わるに至るであろう。而してこの新なる生命に歩み聖潔を全うする事を得るに至るであろう。
辞解
[接がれて] symphutos は「接木」の意味に採る説あれど(C1、I0)この字の本来の意味としては「共に発育する」とか「一つの生命として育つ」との意味でこの最後の意味がこの場合に適当して居る(M0、Z0、A1、E0)。
[キリストに] 原文にないが、この意味を含んで居る。

6章6節 (われ)らは()る、われらの(ふる)(ひと)、[キリストと](とも)十字架(じふじか)につけられたるは、(つみ)(からだ)ほろびて、()ののち(つみ)(つか)へざらん(ため)なるを。[引照]

口語訳わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
塚本訳わたし達はこのことを知っている。──(洗礼は十字架をあらわす。)古いわたし達は(キリストと)一しょに十字架につけられたが、これは罪の体がほろび失せて、わたし達がもう二度と罪の奴隷にならないためであると。
前田訳われらの知るとおり、われらの古い人が彼とともに十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、もはや罪の奴隷にならぬためです。
新共同わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
NIVFor we know that our old self was crucified with him so that the body of sin might be done away with, that we should no longer be slaves to sin--
註解: 我ら信仰に入る前はアダムに属せる旧き人であり、その体は罪に事えて居った(Uコリ5:17。エペ4:22。コロ3:9)。然るに信仰に入りてこの旧き人、罪の奴隷たる人はキリストと共に十字架につけられて死んでしまった。而してその目的は罪の道具となって居った肉体が、かかるものとしては破壊され無能力とせられてしまい、その後は我らは全く罪に事えず、その奴隷たる状態を脱してしまう為である。即ち信仰によりて新に生れたのに潔められんが為であるとの意味である。
辞解
[我らは知る] 原語「知りて」で前節と連絡しキリストと共に甦る事の内容を明かにす。
[旧き人] アダムに属する人で「肉」と云うに同じ「霊」なる「新しき人」と対立す。即ち新生を経験せざる人間の全体。
[キリストと共に十字架につけらる] 霊的結合の結果生ずる心の状態。
[罪の体] (1)罪の一団(C1)、(2)罪の宿る所たる肉体、(3)肉体そのもの等種々に解せられて居るが、本節の場合は「罪の道具となり罪を行って居った体」の意味であろう(M0、G1)。
[ほろび] の原語 katargeō はその働きを無くしてしまう事。

6章7節 そは()にし(もの)(つみ)より(のが)るるなり。[引照]

口語訳それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
塚本訳死んだ者は罪から解放されるからである。
前田訳死んだものは罪から解放されているからです。
新共同死んだ者は、罪から解放されています。
NIVbecause anyone who has died has been freed from sin.
註解: パウロはここに世間普通の事実を捉え来って前節(この後罪に事えざる事)の理由の説明を与えて居る。即ち人間は生きて居る間は罪の奴隷となって居るけれども死ねば、その時より罪の支配を脱してしまう。故にキリストと共に旧き人を十字架につけた場合、罪の支配の下に居った旧き人は最早や死んだのである

6章8節 我等(われら)もしキリストと(とも)()にしならば、また(かれ)とともに()きんことを(しん)ず。[引照]

口語訳もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
塚本訳しかしキリストと一しょに死んだ以上は、一しょに生きることをもわたし達は信じている。
前田訳われらがキリストとともに死んだのならば、彼とともに生きようこともわれらは信じます。
新共同わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
NIVNow if we died with Christ, we believe that we will also live with him.

6章9節 キリスト死人(しにん)(うち)より(よみが)へりて(また)()(たま)はず、()もまた(かれ)(しゅ)とならぬを(われ)()ればなり。[引照]

口語訳キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
塚本訳キリストは死人の中から復活されたのであるから、もう二度と死なれることはなく、もう死が彼を支配することはできないことを、わたし達は知っているのである。
前田訳われらの知るとおり、死人の中から復活されたキリストは、もはや死にたまわず、死はもはや彼を支配しません。
新共同そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
NIVFor we know that since Christ was raised from the dead, he cannot die again; death no longer has mastery over him.
註解: 6、7節に於て死によりて罪の支配を脱する方面を論じ、8-10節に於ては復活によりて永遠に生き、死の支配を脱せる事を示す。キリストと霊的に一致結合せる基督者はキリストの死を自己の死と見ると同じく、キリストの復活を自己の復活と見、爾後はその生命は復活して神の御許に生き給うキリストの生命に結付いて居る(コロ3:3。ガラ2:20。ピリ1:21。)従て彼はキリストと共に永遠に生きるであろう。この事を基督者が信ずる理由は(9節a)復活のキリストが永遠に死に給わざる事を知るが故である。死は決して復活のキリストを支配する事は有り得ない。
辞解
[死にしならば] 過去形。
[活きんこと] 未来形、実際の事実に適合して居る。
[主となる] 支配する意味で支配さるるものは奴隷である。キリストは死の奴隷となり給う事はない。

6章10節 その()(たま)へるは(つみ)につきて(ひと)たび()(たま)へるにて、その()(たま)へるは(かみ)につきて()(たま)へるなり。[引照]

口語訳なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
塚本訳なぜなら、彼が死なれたのは、一度かぎり罪との関係で死なれたのであり、いま生きておられるのは、神との関係で(永遠に)生きておられるのである。
前田訳彼が死にたもうたのは罪に対して一度だけ死にたもうたのであり、いま生きたもうのは神に対して生きたもうからです。
新共同キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
NIVThe death he died, he died to sin once for all; but the life he lives, he lives to God.
註解: キリストは罪を犯し給わなかったけれども、人類の罪を己に負い人類の苦しみを苦しみ給うた。併し彼はその死によりこの罪との関係を一度に断絶し、而して死にし者は罪より脱るるが故にこの死によりて罪との関係は全く清算された。従ってその死は一度びであって、決して繰返す必要がなかった。ヘブ9:12。Tペテ3:18。而して彼は復活して永遠に生き給う、この生命は罪とは全く無関係で、唯神との関係に於て活くる生命である。故にこの新なる生命は永遠に罪に支配せらるる事が無い。
辞解
[▲つきて] 次節の註にある様に「対して」の意味で関係を示す。

6章11節 ()くのごとく(なんぢ)らも(おのれ)(つみ)につきては()にたるもの、(かみ)につきては、キリスト・イエスに()りて()きたる(もの)(おも)ふベし。[引照]

口語訳このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
塚本訳だからあなた達もそのように、自分を罪との関係では死んだ者、神との関係ではキリスト・イエスにあって生きている者と考えよ。
前田訳そのように、あなた方も、自らを罪に対して死んだもの、神に対してキリスト・イエスにあって生きるものとお考えなさい。
新共同このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
NIVIn the same way, count yourselves dead to sin but alive to God in Christ Jesus.
註解: 私訳「キリスト・イエスに在りて」を全文に関係せしむる為「罪につきては」の前に置く。基督者の心の態度は「キリスト・イエスに在る」生活即ちキリスト・イエスとの霊的結合の生活である。従って基督者はキリストと同一の死と同一の復活を経験したものであって、キリスト罪に対して死に給いし如く、我らも罪に対しては死ねる者となって居り、キリスト神に対して生き給う如く、我らも神に対して生きて居るものである。これ「キリスト・イエスに在る者」の真の生命である。基督者は先づこの事を明らかにし、かく「思う」事が必要で、この点を曖昧にして置く場合、聖潔は行われない。尚この死と生は我らの肉体そのものの死滅ではなく、罪及び神に対する関係である事に注意すべし、従って罪に陥り易き腐敗せる性質は我らに残存する。
辞解
[キリスト・イエスに在りて] パウロ特愛の句で殊にその晩年の書翰に多く用て居る。本節の場合これを死と生との両方にかける事が正しい見方であろう(M0、B1、E0、Z0等)。

3-(1)-(2)-(ロ) 肢体を神にささげよ 6:12 - 6:14

6章12節 されば(つみ)(なんぢ)らの()ぬべき(からだ)(わう)たらしめて()(よく)(したが)ふことなく、[引照]

口語訳だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
塚本訳(このようにあなた達と罪との関係は切れてしまった。)だから(いつまでも)罪をあなた達の死ぬべき体の王にして支配させ、その欲望に服従してはならない。
前田訳それで、罪をあなた方の死ぬべき体の王にして、その欲に従わないように。
新共同従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
NIVTherefore do not let sin reign in your mortal body so that you obey its evil desires.

6章13節 (なんぢ)らの肢體(したい)(つみ)(ささ)げて不義(ふぎ)(うつは)となさず、[引照]

口語訳また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
塚本訳またあなた達の肢体を不道徳の武器にして罪にまかせていてはならない。あなた達は死人の中から命によみがえった者であるから、自分を神に、すなわち自分の肢体を義の武器にして神にまかせよ。
前田訳また、あなた方の肢体を不義の武器として罪にまかせないように。死人の中から生きかえったものとして自らを神にまかせ、肢体を義の武器として神におまかせなさい、
新共同また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
NIVDo not offer the parts of your body to sin, as instruments of wickedness, but rather offer yourselves to God, as those who have been brought from death to life; and offer the parts of your body to him as instruments of righteousness.
註解: 前節の原理を自己の実生活に適用すれば12-14節の如きものとなる。即ち我ら基督者は皆罪に対して死んで居るものであるが、罪は未だ死んだのではない、又我らの四肢五体もやがては死ぬべきものではあるが、今尚生きて居り且つ夫々欲望と本能とを持ち、且つこの体も四肢も共に我らのものである。夫故に我らと縁を断った筈の罪(パウロは罪を一人格として取扱って居る)をして我らの体を支配せしめてはならない。即ち肢体を罪の臣として不義を行う道具としてはならない。かくする事は、全く関係を断絶した筈の罪に未だに所を得しめて居る事となる。かかる事は有るべきではない。
辞解
[死ぬべき体] 我ら(即ち我らの意思、人格)は罪に対しては既に死ねる者であるが「体」はやがて「死ぬべき体」で未だ死んで居ない。
[その慾] 「体の欲」。
[肢体] 「体」の各部。
[捧げ] 服従の態度を取る事、現在動詞命令法。
[器] hopla は主として「武器」の意味に用いらるる語。

(かへ)つて死人(しにん)(うち)より()(かへ)りたる(もの)のごとく(おのれ)(かみ)にささげ、その肢體(したい)()(うつは)として(かみ)(ささ)げよ。

註解: 死人の中より活き返りたる者は、最早や罪と関係なく罪の支配を受けず、却て全く新なる生命を得て居るのである。基督者はかゝる者である。若しかかるものが再び罪の奴隷となるならば、それほど大なる自家撞着はない。彼らは自己とその肢体とをことごとく神にささげ義の為にこれを用いなければならない。
辞解
[▲反って] 口語訳の「むしろ」はallaの訳としては弱過ぎる。「反対に」と言う様な語勢。
[ささげよ] 不定過去形の命令法を用い断然かくなすべしとの強き意味を示して居る。

6章14節 (なんぢ)らは律法(おきて)(した)にあらずして恩惠(めぐみ)(した)にあれば、(つみ)(なんぢ)らに(しゅ)となる(こと)なきなり。[引照]

口語訳なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
塚本訳なぜなら、罪はもうあなた達の主人として支配することはないからである。あなた達は律法の下にいるのでなく、恩恵の下にいるのである。
前田訳罪はもはやあなた方を支配しませんから。あなた方は律法のもとにでなく、恩恵のもとにいるのです。
新共同なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
NIVFor sin shall not be your master, because you are not under law, but under grace.
註解: 律法は彼らの肉に打勝つ力が無い、故に律法の下にある者は罪の支配を脱する事が出来ない。然るに我らは律法より脱し恩恵のみによりて義とせられ恩恵の下にある。而して神の恩恵は律法よりも力強く、我らを支配して神に対する全き献身の生涯を送らしむる故に罪(なる人格的力)が入り来りて我らの主となるべき余地が少しもない。この事は理論的に考えて解し得べき事柄では無く、実際的に味得すべき真理である。パウロに取りては「律法の下にある事」も「恩恵の下に在る事」も共に血みどろの体験であった。15-23節は恩恵の下に在る事の説明、7:1-6は「律法」の下にあらざる事の説明と見る事を得。
要義1 [義とせらるる事と潔めらるる事との関係] この二者の関係を正しく理解する事は信仰生活の重点である。(1)潔められし程度だけそれだけ義とせらるると見る説は、信仰のみによりて義とせらるる教理に違反し、(2)潔められしが故に義とせらるるとする説は罪を悔改めし放蕩息子がそのままに義とせらるる事の真理に反し、(3)義とせられしものは既に全く潔められたとする説は人間の罪の現実を無視し、贖罪の教理の一面のみを強調し過ぐる誤に陥り、(4)反対に義とせられしのみにては救は不完全なる故第二の恩恵によりて全く潔めらるる事を要すとする説は、義とせらるる事の何たるかに関する聖書の立場を誤解して居り、(5)義とせられし事の継続叉は維持のために潔めらるる事を要すとする説は二者の間に有機的関係を認めず自力と他力の折衷説の如き無力のものとなり、(6)又義とせらるる事は手段にして潔めらるる事は目的なりと見る説は神の目的は更に大にして復活聖化に在る事を見落すの嫌がある。要するに、(7)6:1-8:17にパウロが種々の方面よリ説明する如く、潔めらるる事は義とせらるる信仰そのものの当然の活動であり響の声に応ずるが如きものである。原因と結果にあらず、本体と枝葉にあらず実に生命とその活動であり、義とせらるる事が生命を指すとすれば潔めらるる事は、その活動を指示する、態と用との関係とも云う事が出来る。
要義2 [罪につきて死ぬとは如何]  6:2。罪につきて死ぬ apothanein tē hamartia とは罪を一の人格的存在と見た言い方でアダムは罪の奴隷であったと同じく、人類は凡て罪の奴隷となり罪に支配されて居る。而して罪が人間を支配する手段としては律法を利用する。故に信仰によリキリストと共に十字架につけられし者は、罪の審判を受け終ったものであり、罪の奴隷たる関係に立つ一人格としては死んでしまったものである。これを罪に対して死すると云うのであって、アダムの原罪から死して、キリストに新生する事である。夫故に(1)罪そのものの死を意味しない、罪は今でも我らを支配せんとして熱心に努力して居る。(2)又罪につきて死するとは行為を潔くする事、キリストに倣う事を比喩的に云ったに過ぎないと見るのも誤って居る。罪に死する事は特種の具体的事実であり霊性の体験である。(3)叉単に爾後已に克ちて聖潔を全うせんとする決心を指すのでもない。既に死んで居る完成せる事実である。
要義3 [肉体と罪との関係] 6:12。聖書の立場より見ると肉体そのもの、叉その四肢五体、及びこれに伴う本能的要求そのものは罪ではない。これらは善にも悪にもあらず唯一の白然現象そのものである。唯これらの四肢五体とその自然の要求とが罪に臣従する時、換言すれば神に背きてサタンに服従する意思によりて支配せらるる時、これらのものは不義の器となりて罪を犯すに至って居るのである。従って四肢五体もその要求も共にこれを神にささげて義の器たらしむる事が出来る。故に罪と云い義と云うは何れも意思の問題である事に注意すべきである。

3-(1)-(2)-(ハ) 罪の僕と義の僕 6:15 - 6:23

6章15節 (しか)らば如何(いか)に、(われ)らは律法(おきて)(した)にあらず、恩惠(めぐみ)(した)にあるが(ゆゑ)に、(つみ)(をか)すべきか、(けっ)して(しか)らず。[引照]

口語訳それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
塚本訳それでは、どうだろうか。わたし達は律法の下にいるのでなく恩恵の下にいるのだから、罪を犯そうではないかということになるのだろうか。もちろん、そんなことはない。
前田訳それならどうでしょう。律法のもとでなく恩恵のもとにいるからとて、われらはこれからも罪を犯すべきでしょうか。断じて否です。
新共同では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
NIVWhat then? Shall we sin because we are not under law but under grace? By no means!
註解: 前節を受けて新なる議論に入る。律法の下にあれば罪行は一々審判かれ、これに反して恩恵の下にあれば罪は凡て赦される故罪を犯すとも少しも恐るゝ処が無いではないか、と云うのが恩恵の下にある事の意義を正しく解せざる者の発する反問であり又往々にして陥る欠点である。パウロは断然これを否定して、次節以後にその理由を叙述して居る。
辞解
[罪を犯すべきか] 6:1の「罪のうちに止るべきか」よりも更に強く具体的に突き進んで居る。

6章16節 なんぢら()らぬか、(おのれ)(ささ)(しもべ)となりて、(たれ)(したが)ふとも()の((したが)うものの)(しもべ)たることを。[引照]

口語訳あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
塚本訳あなた達はこのことを知らないのか。──奴隷として服従するためにある人に自分をまかせれば、あなた達は服従するその人の奴隷であって、罪の奴隷になって死ぬか、それとも、(神に)従順の奴隷になって義とされ(て生き)るか、どちらかである。
前田訳このことをご存じありませんか。奴隷として服従するよう自らを人にまかせれば、あなた方はその奴隷として服従すべきであり、それは罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかです。
新共同知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
NIVDon't you know that when you offer yourselves to someone to obey him as slaves, you are slaves to the one whom you obey--whether you are slaves to sin, which leads to death, or to obedience, which leads to righteousness?
註解: 日本人の如く君臣主従の関係を了解する国民は本節の意味を容易に理解する事が出来る。即ちかりそめにも他人の臣僕、又は奴隷となった場合はその主人に対して全服従を示すべき義務があり、且つかくするのが臣僕の姿である。僕はその主人に対して自由がない。

(あるひ)(つみ)(しもべ)となりて()(いた)り、(あるひ)從順(じゅうじゅん)(しもべ)となりて()(いた)る。

註解: 罪(即不信)と死、従順(即ち信仰)と義(即ち生)とは密接不離の関係にある。この場合死とは肉体の死のみならず霊的の死、道徳的の死をも意味す、聖書にこの二者は同一事実と見る(マタ8:22。Uコリ15:29參照)。義は今現に義とせられ、最後に義人として完成せらるゝ迄の全体を示し「義人は生く」るが故に死の反対を示す。罪の奴隷か信仰の奴隷か人間はこの二者の中の一を選ばなければならぬ。肉は罪を好みて多くの人自己を罪の奴隷とする。
辞解
罪と従順、死と義とを相対照せしめて居るのは形式的に不備であるけれども内容的には差支えがない。形式的に云えば罪と神、従順と不従順、生と死、義と不義とを相対照すべきである。

6章17節 ()れど(かみ)感謝(かんしゃ)す、(なんぢ)()はもと(つみ)(しもべ)なりしが、(つた)へられし(をしへ)(のり)(こころ)より(したが)ひ、[引照]

口語訳しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
塚本訳しかし神に感謝する、あなた達は(かつて)罪の奴隷であったが、(神から信仰の)教えの型に入れられて心からそれに服従し、
前田訳しかし神に感謝します。あなた方は罪の奴隷でしたが、教えの型に入れられてそれに心から従い、
新共同しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
NIVBut thanks be to God that, though you used to be slaves to sin, you wholeheartedly obeyed the form of teaching to which you were entrusted.

6章18節 (つみ)より解放(ときはな)されて()(しもべ)となりたり。[引照]

口語訳罪から解放され、義の僕となった。
塚本訳罪(の奴隷たる身分)から自由にされて、義の奴隷にしていただいたのである。
前田訳罪から解放されて義の奴隷にされました。
新共同罪から解放され、義に仕えるようになりました。
NIVYou have been set free from sin and have become slaves to righteousness.
註解: 前節の如くなる故、パウロは翻ってロマの基督者の状態を見て感謝の念が油然と湧いて来た。その故は彼らの主人即ち服従の対象がかつては罪であったのが一変して義となったからであり、これ彼らの従順の結果であった。この場合彼らの従順はその伝えられし教に対して払われた。神に対する従順は神の教に対する従順としてあらわれる。
辞解
[伝えられし教の範に] 「汝らが付されし教の範」(G1)と読む説あれども取らず。「教の範」を「教のあるタイプ」即ちパウロ主義のタイプの教の意味に取る説あれど(M0)不適当なり(Z0)。
[義の僕] 神に対する絶対服従は結局義に対する絶対服従となる故に「従順の僕」(16節)「神の僕」(22節)と云うも結局同一なり。
[心より] 故に形式的表面的服従にあらず心の転向なり。

6章19節 ()(ひと)(こと)をかりて()ふは、(なんぢ)らの(にく)よわき(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
塚本訳(奴隷の例でこんな)人間的の言い方をするのは、あなた達の理解力が(まだ)弱いからである。(わたしはこう言いたい。──かつて)あなた達が奴隷になって肢体を汚れと不法とにまかせて不法を行ったように、今度は(神の)奴隷になって肢体を義にまかせて聖くなれと。
前田訳人間的ないい方をしますが、それはあなた方の肉の弱さのためです。肢体を奴隷としてけがれと不法にまかせて不法をしたように、今は肢体を奴隷として義にまかせて聖に向かいなさい。
新共同あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
NIVI put this in human terms because you are weak in your natural selves. Just as you used to offer the parts of your body in slavery to impurity and to ever-increasing wickedness, so now offer them in slavery to righteousness leading to holiness.
註解: 主従関係を以てこの信仰の世界の事を説明したのは一般に肉即ち人間の性来の自然性弱くして、かくの如くに明瞭にせざれば人はこれを解する事が出来ないからである。

なんぢら(もと)その肢體(したい)をささげ、(けがれ)()(ほふ)との(しもべ)となりて()(ほふ)(いた)りしごとく、(いま)その肢體(したい)をささげ、()(しもべ)となりて(きよめ)(いた)れ。

註解: 12節に肢体を器物としてささぐる譬を挙げ、ここでは凡てを人格化して居る。「穢」は道徳的不潔の行為で、「不法」は律法違反の行為で、この二者は「罪」の内容を為して居る。肢体をこれらの奴隷とせばその結果肢体そのものが不法化する。同様に我らの肢体を義の奴隷とすれば肢体はこれによりて聖化される。
辞解
[何となれば] gar とあり、命令を以て理由と見るは不可能なれども「潔きに到れ」を「潔きに至る事は絶対に必要なる故」の意味に取れば、gar の意味も解し得(M0、G1)。
[潔き] hagiasmos は聖別せられし結果聖くなる事。

6章20節 なんぢら(つみ)(しもべ)たりしときは()(たい)して自由(じいう)なりき。[引照]

口語訳あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
塚本訳なぜなら、あなた達が罪の奴隷であった時には、義に対して自由(の身)であって(勝手放題な生活をしてい)たが、
前田訳罪の奴隷であったとき、あなた方は義に対して自由でしたが、
新共同あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
NIVWhen you were slaves to sin, you were free from the control of righteousness.
註解: 罪の奴隷であった過去の生涯に於ては罪は圧迫的権威を以て臨むけれども義は我らを支配する力が無く、我らは義に対しては何等の義務を負わざる自由人であった。我らと義との関係はかくも力弱きものであった。

6章21節 その(とき)(いま)(はぢ)とする(ところ)(こと)によりて(なに)()()しか、これらの(こと)(きはみ)()なり。[引照]

口語訳その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
塚本訳その時いったいどんな実を得たのであったか。今なら恥ずかしいものではないか。それらのものの最後は死だからである。
前田訳そのころ何の実を得ましたか。今なら恥じ入るようなものでした。それらの極(はて)は死です。
新共同では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
NIVWhat benefit did you reap at that time from the things you are now ashamed of? Those things result in death!
註解: 私訳「その時何の実を得しか、今恥る処の事にあらずや、これらの事の極は死なり」我らは義の奴隷にあらざる故、穢と不法とが我らを支配しその結果何等の善き果実、即ち潔き生活をも来し得ず唯今恥づる処の結果を招いたに過ぎなかった。これらの汚穢の終局は死であって、神の審判によりて永遠の死に至らざるを得ない。
辞解
[実] パウロに於ては常によき意味の結果を云う(ガラ5:19、22。エペ5:9。ピレ1:11、22等)。
[極] 終局で最後の審判の時の事
[死] 永遠の死で永遠の生命の反対。

6章22節 ()れど(いま)(つみ)より解放(ときはな)されて(かみ)(しもべ)となりたれば、(きよめ)にいたる()()たり、その(きはみ)永遠(とこしへ)生命(いのち)なり。[引照]

口語訳しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
塚本訳しかし今は、罪から自由にされて神の奴隷にしていただき、一つの実を得ている。この実はあなた達を聖め、最後は永遠の命に至らせるのである。
前田訳今や罪から解放されて神の奴隷にされ、あなた方は聖化への実を持っています。その極は永遠のいのちです。
新共同あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
NIVBut now that you have been set free from sin and have become slaves to God, the benefit you reap leads to holiness, and the result is eternal life.
註解: 前2節の正反対の状態を示す。即ち回心して基督者となりし「今」は罪より自由とせられて義の奴隷、換言すれば神の奴隷となった。罪に対して自由なるが故にあらゆる汚穢と不法とは我らの上に絶対の権威を振わない。神の奴隷なるが故にその行為は自然潔められざるを得ず、而してその終局は、死の反対即ち永遠の生命である。信仰は当然善き行為を伴い遂に永遠の生命に至る。
辞解
[開放されて] 20節の「白由」と同文字、本節にも前節と同じく「実」と「極」との二つを揚げし事に注意せよ。
[実] 現在の生活上に於て生ずる行為、
[極] 最後の審判の終局に於て招く結果を指す。

6章23節 それ(つみ)の[(はら)ふ](あたひ)()なり、()れど(かみ)賜物(たまもの)(われ)らの(しゅ)キリスト・イエスにありて()くる永遠(とこしへ)生命(いのち)なり。[引照]

口語訳罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
塚本訳なぜなら、罪が(奴隷に)払ってくれる給料は死であり、(従う者に与えられる)神の賜物は、わたし達の主イエス・キリストにおいての永遠の命だからである。
前田訳それは、罪からの報酬は死であり、神からの賜物はわれらの主キリスト・イエスにあっての永遠のいのちだからです。
新共同罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
NIVFor the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.
註解: 前節の如くになる理由は(gar)罪人の主たる罪はその奴隷として罪を犯す者(15節)に対して「死」なる賃銭を仕払い、基督者の主たる神はその奴隷として潔きに至る者に対して恩恵の賜物としてキリスト・イエスにある永遠の生命を与え給う事である。賃銭と恩恵との差異は絶大である。故に人は神の僕となる事によりて潔められ、且つ永生を獲得する。
辞解
[値] opsōnia 兵士に金銭その他を以て仕払う賃銭の事。
[賜物 ] charisma は「恩恵による賜物」を意味する。本節の場合前者は複数、後者は単数。
[キリスト・イエスに在りて受くる] 単に「キリスト・イエスにある」でキリストとの霊の交際の状態に於て存在する永遠の生命を指す。永遠の生命とは単に時間的に永遠なるのみにては無意味であって、キリスト・イエスにある生命なるが故に意義ある生命となる。
要義1 [自由と奴隷] 如何に神の奴隷であっても奴隷である以上自由が無い事となる筈である。然るにパウロは我らの「召されたるは自由を与えられん為なり」と云う(ガラ5:13)は如何なる理由によるのであるか。蓋し人間は本来神の奴隷たるべく創造されたものである。故に神に対する服従、即ち従順は人間の最も本然の姿である。故に神の奴隷となり神に従う時、人間の良心は完全にこれに共鳴して少しの反抗をも為ない。そこに絶対の自由を見出すのである。「神の奴隷となるは真の自由なり」(アウグスチヌス)。
要義2 [奴隷の生涯] 人間は罪の奴隷か然らざれば神の奴隷かの何れか一を撰ばなければならない。この二者の何れにも隷属せざる人間は事実として存在しない。而して奴隷の生涯、又は臣従の生涯の何たるかは君臣の関係に於て特別の発達を遂げたる日本人に取りて最も理解し易き事実であって、武士がその主君に仕えし精神を以て神に仕うる者は、真に神の臣として理想的の基督者となる事を得、基督者は神の臣として罪とは絶縁し(自由となり)、その肢体を凡て神にささげて潔き実を結び、遂に神の恩恵の賜物として永生を獲得するに至る。これ基督者武士の誉である。
要義3 [聖潔めは神に従う者に与えらるる聖霊の果実なり] 恩恵の下に在るが故に罪を犯すとも審判かるる事なしと考うる事は重大なる誤りである。神に従う者即ち信仰によりて神の恩恵の下に在る者は神の奴隷なるが故に、その肢体は当然神にささげられなければならず、従って神はその御霊によりてこの肢体を潔めこれによき実を結ばしめ給う。神の僕は神のものとして聖別せられ hagiazō 従って聖潔 hagiasmosに到る事が出来る。故に聖潔を欲する者は神の忠実なる奴隷となる事が先決問題である。
附記 [6:15-23の思想の表顕法] パウロは或は「罪の僕」(16節)と云い、又は「穢と不法の僕」(19節)と云い叉「従順の僕」(16節)「義の僕」(18節、19節)「神の僕」(22節)等と云い異なる語を以て結局同一の事実を云い表わして居る所以は、パウロは哲学者の如くに術語そのものに精確なる内容を規定せんとしなかった為であって、パウロの有する豊富なる宗教的経験を種々の語を以て自由に表顕せんとしたからである。この意味に於て6:15-23を解する事が必要である。