黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版使徒行伝

使徒行伝第2章

分類
1 イエスの昇天より聖霊降下まで 1:1 - 2:47
1-5 聖霊の降下 2:1 - 2:36
1-5-1 聖霊降下の状況 2:1 - 2:4

2章1節 五旬節(ごじゅんせつ)()となり、[引照]

口語訳五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
塚本訳五旬節の祭の日(すなわち五旬節最後の日)になって、(使徒たちが)皆一緒に集まっていると、
前田訳五旬節の日になったので皆がひとところに集まっていた。
新共同五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
NIVWhen the day of Pentecost came, they were all together in one place.
註解: 「彼ら」即ち十二弟子等のみならず1:15の百二十人その他の多くの弟子たちも共に集って居った。(▲この多くの人たちが皆ガリラヤ人(7節)であったという証拠は無い。)単に十二使徒のみを意味せざる事は16節以下のヨエルの預言を引用せる点より見て之を知る事が出来る。神が何故にこの日を聖霊降下の日として選び給ひしかに就きて聖書に明示せられて居ないけれども、之をシナイ山の律法授与の日に相当すと見る説(A2、出12:1以下と19:1とを比較せよ)とこの日は当時の世界の各地よりユダヤ人がエルサレムに集る日に相当する為、聖霊降下の証拠をこれ等の凡ての人に示さんが為であると見る説(C1)とがある。
辞解
[五旬節] ペンテコステ即ち第五十を意味し、過越の日(ニサンの十四日)を終わって種無しパンの節の第一日より起算して第五十日目を言う、過越節、仮廬節と共に三大節として祝はれる。この日は収穫の祝(出23:16)又は初生子献納の日(レビ23:15、16)として記念せられ、申16:10には後世に至りてシナイ山に於ける律法授与の記念日として祝はるるに至った。尚ヨハネ伝によりイエスの十字架がニサンの月の十四日金曜日であったとすれば、この五旬節は日曜日に当り弟子たちは主の復活の記念として集って居ったのであろう。
[日となり] 原語「日満ちて」で意味稍不明であるが恐らくその日の来るまでは日が満ちないと考える意味の考へ方であらう(M0)。

(かれ)らみな一處(ひとつところ)(つど)()りしに、

2章2節 (はげ)しき(かぜ)()ききたるごとき(ひびき)、にはかに(てん)より(おこ)りて、その()する(ところ)(いへ)滿()ち、[引照]

口語訳突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
塚本訳突然、天から激しい風が吹いてきたようなざわめきがしてきて、座っていた家中にひびきわたった。
前田訳すると突然天から激しい風が吹いてきたようなひびきがして、彼らがすわっていた家全体を満たした。
新共同突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
NIVSuddenly a sound like the blowing of a violent wind came from heaven and filled the whole house where they were sitting.
註解: 2-4節は聖霊降下の場合の異常なる現象の記録である。その第一は「烈しき風の吹ききたるがごとき響」なる形容を以て表示せられ、聴覚に訴えし不思議なる音響であった。之によりて人々の心に畏懼の念が生じた。これが普通の烈風の如き自然現象にあらざりし事は「如く」hosei なる語が用いらるる事を以て知る事が出来る。
辞解
[風] 一般に pneuma 即ち「霊」と同文字を用いて居るけれども(ヨハ3:8)ここでは pnoē なる文字を用いて居るのは特にその現象の異常なる事を示さんが為注意して混同を避けたものであろう。神の臨在を風を以て示せる場合は少くない(詩104:3。I王19:11)。
[家] 神殿に附属して居る建物(之を家と称し、三十ばかり有ったとの事)と見る説(B0)と、単に弟子たちの集合の場所なる個人の住宅と見る説とあり(M0、E0、A0)後説を採る。この家は恐らく1:13、15の家ならん。マコ14:12以下の家なりとの説あれど確証はない。

2章3節 また()(ごと)きもの(した)のやうに(あらは)れ、(わか)れて各人(おのおの)(うへ)にとどまる。[引照]

口語訳また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
塚本訳そして火のようなかずかずの舌が、分れ分れに自分たちひとりびとりの上に留まるのが彼らに見えた。
前田訳そして炎のような分かれ分かれの舌が彼らに現われ、ひとりひとりの上にとどまった。
新共同そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
NIVThey saw what seemed to be tongues of fire that separated and came to rest on each of them.
註解: 原文は直訳すれば「火の如きものの分裂せる舌が現れ」となる。前節は聴覚に対する徴でありこれは視覚に訴えし徴であった。火も亦聖霊を示すに最も相応しきものであって、「人の心に火を点じ、この世の虚栄を焼き尽し、萬物を潔め新にする」処のものである(C1)。之が多くの枝に分れて舌となりたるは、一つの聖霊が多くの人に分与せられ、従って多くの基督者が合して一のキリストの体である事を示し、「舌J glōssa は「言語」と同文字で、バベルの塔以来言語相通ぜざる諸国民が聖霊の言語によりて一つに帰せらるる事を表徴せるものと見る事が出来る。聖霊を受けしものは皆キリストにありて一体である。

2章4節 (かれ)らみな(せい)(れい)にて滿(みた)され、御靈(みたま)()べしむるままに異邦(ことくに)(ことば)にて(かた)りはじむ。[引照]

口語訳すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
塚本訳すると彼らは皆聖霊に満たされ、御霊に言わせられるままに、いろいろな外国語で話し出した。
前田訳そして皆が聖霊に満たされて、霊が語らせるとおりに別なことばで話しはじめた。
新共同すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
NIVAll of them were filled with the Holy Spirit and began to speak in other tongues as the Spirit enabled them.
註解: 音と光との外部的徴の外に最後に内部的徴が与えられ、彼等は皆聖霊に満された。而してこの御霊は彼らを動かし彼らは異れる国語を以て語り姶めた。以上の如くしてこの五旬節の出来事は最も特別なる奇蹟的現象であった。之によりて聖霊降下の事実は凡ての人に明かに示された。地上に於けるキリストの体たる教会はこの時より始まったのである。かゝる画期的出来事故、特別なる奇蹟的現象が之に伴ったのである。
要義1 [聖霊降下の意義]旧約時代に於ても御霊はしばしば人を動かして神の業を為し神の言を語らしめた。しかしながら一人格として御霊御自身が地上に下りて我らの中に住み給うに至ったのはこの五旬節に始まるのである。即ちある特定の人が特別に御霊に動かされたと言うのではなく、これ迄神の御許に在りし御霊が、キリストの昇天と共に、この地上に下りて我らと共に住み給う様になったのである。(ヨハ16:7、8)。この一つの霊が分れて各人の上に止まる時、その人はキリストの体たる教会の一員たらしめられる。
要義2 [聖霊降下に伴へる奇蹟的現象]風の吹くが如き音、火の如き裂けたる舌、聖霊の満溢(まんいつ)と他国語を語れる事等何れも普通に目撃し得ざる特別の現象である。その後コリントの教会に於ても、その他の場合に於ても「異言を語る」場合は有ったけれども(10:46。19:6)、五旬節に於ける如き特別の現象は再び起らなかった。これは聖霊降下はしばしば起るべき現象ではなく、この一回を以て完了せられし現象なるが故である。夫故にこの特別の奇蹟を今日も繰返さん事を欲し、之無くしては聖霊を受けざるかの如くに考える事は聖霊降下の意義の誤解である。五旬節に於て降り給いし聖霊は今日も尚我らと共に在し給う。
附記 [異邦の言を語る事]本章の記事によれば「異邦の言を語る」とは人々聖霊に充されて、恍惚状態となり己の知らざる異国の言に於て語り、異国の民は之を聞けばその意味を了解する如き状態を指して居ると見なければならぬ(2:7-11参照)。この現象は10:46。19:6及びIコリ12章の「異言を語る」事とは幾分差異ある事はIコリ12章、14章等より之を知る事が出来る。即ち之を聞く者が通訳無しには解し得なかったのであった(Iコリ14:13、26-28)故に五旬節に於ける現象は全然特別のものと見なければならぬ。かかる事が可能なりやにつきては科学的に答うる事は出来ない。唯凡ての他の奇蹟と共に不可能事が神によりて可能たらしめられたのであると考えるべきである(一種の催眠状態に於て聖霊より暗示せられて異邦の言を語る事が不可能ではないと言い得るであろう)。
この事実の不可思議なるが為に、之を説明を以て変更せんとし、或は(1)古き預言者の語を解釈する新なる方法を意味すとなし、或は(2)彼らの故郷の言語を用いたので、あまりに熱心に語った為に宗教上の用語とは異るものとなったと解し、或は(3)普通日常語と異れる詩的又は他の稀なる語を用いたと解し、或は(4)彼等の常用語とは異れるアラミ語を用いし意味とし、又は(5)観念を発表したのであって言語を用いたのではないと解し、又は(6)聴者の方に奇蹟が行われ、自己の国語にあらざる言語を自国語の様に聴く事が出来たのであると解し、又は(7)ユダヤの伝説にモーセがシナイ山に於て律法を受くる時一つの声が七十の国民に各々別の声の如くに聞えた事が伝えられ、本章はその焼き直しであると解し、又は(8)最も多く行はるる説は、之は「異言を語る」事と同一の事実であったのを、後年の伝説を之に加えてルカが物語化したものであると解する説等である。しかしこれ等の凡ては聖書の原文に多かれ少かれ変更を加えなければならぬ欠点があり、又かく解するとしても必ずしも凡ての困難が除かれたのではなく、その処には又夫々の奇蹟的現象の説明を必要とするのである。故に予は前述の如く、この文字のままの奇蹟が行われたものと解するを可なりと信ず。けだしルカはこの事実につきその目撃者に就きて聴き糺(ただ)すべき多くの機会を有して居った筈であると信ずるからである。▲2:1の「一つ処に集った」人々は1:15の120人も加わったと解すれば、この群集はガリラヤ人だけでなく、世界の各地から集ったユダヤ人と見るべきで2:7は異言をきいた人々の誤解であり、2:4のheterai glossai(異邦の言葉)は、この人々が聖霊に充たされ、特別の心理状態となり、各自がその生れ故郷の国語で語り始めたものと解するのも一つの解釈であろう。

1-5-2 群集のおどろき 2:5 - 2:13

2章5節 [(とき)に]敬虔(けいけん)なるユダヤ(びと)天下(てんか)國々(くにぐに)より(きた)りてエルサレムに()()りしが、[引照]

口語訳さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
塚本訳そのときエルサレムには、天下のあらゆる国々から来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
前田訳さて、エルサレムには天下のすべての国民の中からの敬虔な人々であるユダヤ人が住んでいた。
新共同さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
NIVNow there were staying in Jerusalem God-fearing Jews from every nation under heaven.
註解: 信仰に熱心なるユダヤ人は、エルサレムに憧れて居った。彼らは来りてその処に住居を定め又は一時の仮寓を有って居った。
辞解
[住む] katoikeō は仮寓の意味に用いる場合少いけれども、この処では五旬節の祭の為エルサレムに上り来れるユダヤ人をもこの中に含むと見て差支が無い(M0、A0、E0)。好期節に相当するので過越節よりも、五旬節の方が却って都上りが多かったとの事である(シューラー)。
[国々] ethnos は「民」「国民」の意。

2章6節 この(おと)おこりたれば群衆(ぐんじゅう)あつまり(きた)り、おのおの(おの)國語(くにことば)にて使徒(しと)たちの(かた)るを()きて(さわ)()ひ、[引照]

口語訳この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
塚本訳この(大きな)物音がすると、大勢の者が集まってきた。彼らはそれぞれ、自分の国語で使徒たちが話しているのを聞くと、びっくりした。
前田訳この音がすると、大勢が集まってきて、めいめいが自分たちの国ことばで使徒たちが語るのを聞いておどろいた。
新共同この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
NIVWhen they heard this sound, a crowd came together in bewilderment, because each one heard them speaking in his own language.
註解: 大風の如き音は家の外にも聞えたので多人数その家に集まって来た。そして各自国語、又は自己の方言にて使徒たちの語るのを聞きその異常の光景に全く心が混乱した。
辞解
[音] phōnē で「声」と訳し、使徒たちの語る声と解する説あれど不可。
[国語] dialektos で「方言」の意味をも含む。集って居った多くの人は単に方言の程度の差異を有するに過ぎないものであった。
[騒ぎ合ひ] 「心が混乱する」との意味もある。この場合この意味が却って適当であろう。
[使徒たち] ▲本文は「彼ら」で群集の全部であるから使徒たちと訳するのは誤りであろう。註解の中にも必要の訂正を施した。

2章7節 かつ(をどろ)(あや)しみて()ふ『()よ、この(かた)(もの)(みな)ガリラヤ(ひと)ならずや、[引照]

口語訳そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
塚本訳そして驚きあきれて言った、「見よ、話しているあの人たちはみんな、ガリラヤ人ではないか。
前田訳彼らはいぶかりあきれていった、「これら話しているのは皆ガリラヤ人ではありませんか。
新共同人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
NIVUtterly amazed, they asked: "Are not all these men who are speaking Galileans?
註解: ▲▲これは群集の誤解で語っている者はガリラヤ人だけではなかったと見るべきであろう。

2章8節 如何(いか)にして我等(われら)おのおのの(うま)れし(くに)(ことば)をきくか。[引照]

口語訳それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
塚本訳それだのにどうしてわたし達は、それぞれ自分の生まれ故郷の国語(でこの人たちが話しているの)を、聞くのだろうか。
前田訳しかるにどうしてわれらはめいめいが生まれ故郷の国ことばを聞くのでしょう。
新共同どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
NIVThen how is it that each of us hears them in his own native language?
註解: 言語を異にするガリラヤ人の一団が各人の国語を以て語るをきき、彼らの驚駭は一方ではなかった。語る者は主に使徒たちであったろうけれども、必ずしもそれに限られて居ない。唯ガリラヤ人が多数を占めて居った事は明かである。

2章9節 我等(われら)はパルテヤ(ひと)、メヂヤ(ひと)、エラム(ひと)[引照]

口語訳わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
塚本訳わたし達は(世界中から来ている。)パルテヤ人とメジヤ人とエラム人とがあり、メソポタミヤ、ユダヤとカパトキヤ、ポントとアジヤ、
前田訳われらはパルテア人とメジア人とエラム人、また、メソポタミア、ユダヤとカパドキア、ポントとアジア、
新共同わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
NIVParthians, Medes and Elamites; residents of Mesopotamia, Judea and Cappadocia, Pontus and Asia,
註解: 以上はバビロン系ユダヤに属し、パルテヤはインドよりチグリスに至る部分、メヂヤはその南、エラムはその南でチグリス、ユーフラテス川の下流ペルシャ湾に接せる地方。

またメソポタミヤ、ユダヤ、

註解: ユダヤ地方の人はガリラヤ地方のユダヤ人とは方言を異にして居った。

カパドキヤ、

註解: 小アジヤの東部。

ポント、

註解: カパドキヤの北、

アジヤ、

註解: 小アジヤの西部海岸地方。

2章10節 フルギヤ、[引照]

口語訳フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
塚本訳フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネ(の町)に近いリビヤの部分とに住んでいる者、またここに来て仮住いしているローマ人があって、
前田訳フルギアとパンフリア、エジプトとクレネに近いリビアの部分とに住むもの、また、当地在留のローマ人、
新共同フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
NIVPhrygia and Pamphylia, Egypt and the parts of Libya near Cyrene; visitors from Rome
註解: 小アジヤの中部山地。

パンフリヤ、

註解: 小アジヤの南部地中海岸。

エジプト、リビヤのクレネに(ちか)地方(ちはう)

註解: クレネはその地方の主都でこの地方人民の四分の一はユダヤ人なりし由、

などに()(もの)、ロマよりの旅人(たびびと

註解: 寧ろ「仮寓のロマ人」と直訳すべきで或は(1)他地方生れのユダヤ人にしてロマに仮寓するもの或は(2)ロマ生れのユダヤ人にしてエルサレムに来って仮寓するものと解せられる。後者が適当である。

)――ユダヤ(びと)および改宗者(かいしゅうしゃ)――

註解: 以上に列挙せる各種の人々の中には本来のユダヤ人と他人種にしてユダヤ数に改宗せる改宗者 prosēlytoi とがあった。改宗者に二種あり、「義の改宗者」と称せらるるは割礼を受けてユダヤ教に入りたる人々、即ちユダヤ人と略同一の宗数的生活をなす人、「門の改宗者」と言うは割礼を受けず律法の全体を守る義務が無いけれどもユダヤ教の信仰を尊敬し集会に加って居る人。

2章11節 クレテ(びと)およびアラビヤ(びと)なるに、()國語(くにことば)にて(かれ)らが(かみ)(おほい)なる御業(みわざ)をかたるを()かんとは』[引照]

口語訳ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
塚本訳ユダヤ人と(異教からの)改宗者、クレテ人とアラビヤ人であるのに、そのわたし達が、(いま)自分の言葉で、あの人たちが神の大きな御業を話しているのを聞くというのは、どうしたことだろう。」
前田訳ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビア人ですのに、彼らがわれわれのことばで神の偉大なみわざを語るのを聞くとはなぜでしょう」と。
新共同ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
NIV(both Jews and converts to Judaism); Cretans and Arabs--we hear them declaring the wonders of God in our own tongues!"
註解: 当時世界の各地から多数の人がエルサレムに集って居った。五旬節を祝わんが為である。当時の全世界を代表せるこれ等の人々が皆自国語を以て使徒たちが語るのを聞いた事は取りも直さず福音が全世界の人々に宣伝えらるべきものである事を示す。神はこの事実を明かならしめんが為にこの奇蹟を行い給うたのである。

2章12節 みな(をどろ)(まど)ひて(たがひ)()ふ『これ何事(なにごと)ぞ』[引照]

口語訳みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
塚本訳皆が呆気にとられ、すっかり不安になって互に言った、「これはいったいどうしたというのだ。」
前田訳皆はいぶかり惑って、互いにいった、「これは一体どういうことでしょう」と。
新共同人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
NIVAmazed and perplexed, they asked one another, "What does this mean?"
註解: 彼らは敬虔なるユダヤ人らであったけれども(5節)、この現象の意味を解する事が出来なかった。彼らに取りて非常に大なる事件が起ったのである事に彼らは心付かなかったからである。

2章13節 (ある)(もの)どもは(あざけ)りて()ふ『かれらは(あま)葡萄酒(ぶだうしゅ)にて滿(みた)されたり』[引照]

口語訳しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
塚本訳しかし「あの人たちは新酒に酔っぱらっている」と言って、嘲弄する者もあった。
前田訳しかし、あざけって、「彼らは酒に酔っている」というものもあった。
新共同しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
NIVSome, however, made fun of them and said, "They have had too much wine. "
註解: 聖霊降下の現象を解せざるものはそのあまりに不可解なるが為に彼らを酒に酔えるが為と解した。神の御業を謙遜なる心を以て解せざるものは、之を非難する事によりて自らの滅亡を招く。▲聖霊が一の人格(persona)である以上、独自の活動をなし給うことは当然である。聖霊が力強く各人の上に降るとき、各人は無意識的に平生用いない故国語を語ることは有り得ることである。
辞解
[或者] 原語「他の者」で、7-10節に掲げられし人々以外の人を指すと解する説あれど(M0)、むしろ彼らの中の或者と見るを可とす、如何に敬虔なる人といえども必ずしも神の事を解するとは限らない。
要義1 [異常現象とその意義]神はその霊を以て、時に全く異常なる現象を顕し給う、奇蹟もその一種である。しかしながらモーセの杖の奇蹟に対しエジプトの法術士が同様の奇蹟を行いしと同じく、神の為し給う奇蹟に類似する現象が往々にしてサタンによって行わるる事がある故、我らはこの区別を注意しなければならぬ。我らは「霊の神より出づるや否やを辨(わきま)へ」なければならぬ。この種の異常現象が何等の人為的作為によらずして起れる時は之を神の御業によるものと見るべきである。もしその処に何等か人為的分子が介在する時それはサタンの業であると信ずべきである。
要義2 [聖霊降下の表徴的意義]創11:1-9によればかつてバベルの住民は高楼を造リて自ら天に達せんと企てた為、神は之に向って怒を発し給い、その言語を混淆(こんこう)して彼らの意思の疏通を欠くに至らしめ、かくして彼らは多くの異れる語の民となり彼らを全地の面に散らしめたとの事である。これがセム、ハム、ヤペテの子孫が全世界に散布せる事実の説明となって居る。之に反し五旬節の出来事の記事に於ては9-11節の地方名の列挙はセム、ヤペテ、ハムの子孫の順序となって居り、創10章の複写の如くに見え、而してバベルの記事とは正反対に、多くの異なれる国語の民が、互に聖霊の言を以て意思を通じ得るに至ったとの事である。ここに明かにバベルの記事とペンテコステ(五旬節)の記事との対照を見得るのであって、前者は人力と人間の計画による社会的統一の不可能を示し、後者は神の霊の力によって如何に言語人情を異にする人々の間にも理解と一致とを来し得る事を示す。この真理は今日の国際間題の解決に対する唯一の指針である。

1-5-3 ペテロの説教 2:14 - 2:36

2章14節 (ここ)にペテロ(じふ)(いち)使徒(しと)とともに()ち、(こゑ)()()べて()[引照]

口語訳そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。
塚本訳するとペテロは十一人(の使徒)と共に進み出て、声高らかに雄弁をふるった。──「ユダヤ人諸君、ならびにエルサレムに住む皆さん、このことを知ってください。わたしの言葉に耳を傾けてください。
前田訳そこでペテロは十一人とともに立ち上がり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤ人の方々、エルサレムにお住まいの皆さん、このことを知ってください。わたしのいうことをよく聞いてください。
新共同すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
NIVThen Peter stood up with the Eleven, raised his voice and addressed the crowd: "Fellow Jews and all of you who live in Jerusalem, let me explain this to you; listen carefully to what I say.
註解: 異邦の言を語る特別の現象は一時的であり、之が終ってペテロは静かに十一使徒と共に会衆に向って語った。「声を揚げ」は殊にその演説の重要性を強調する事に役立つ、マタ5:2参照。

『ユダヤの人々(ひとびと)および(すべ)てエルサレムに()める(もの)よ、(なんぢ)()わが(ことば)(みみ)(かたむ)けて、この(こと)()れ。

註解: ペテロの強き確信がこの語の中に表われて居る事に注意すべし、この時のペテロは曾て主を否める時の如き弱きペテロではなく、聖霊に満されて立上った勇ましいペテロであった。

2章15節 (いま)(あさ)九時(くじ)なれば、(なんぢ)らの(おも)ふごとく(かれ)らは()ひたるに(あら)ず、[引照]

口語訳今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
塚本訳今は(まだ)朝の九時であるから、あなた達が想像するように、、この人たちは酒に酔っているのではありません。
前田訳今は朝の九時ですから、この人たちはあなた方がお考えのように酔っているのではありません。
新共同今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
NIVThese men are not drunk, as you suppose. It's only nine in the morning!
註解: 孰(いず)れの国民でも余程の放逸者に非ざる以上朝より酒に酔う如き者は無い。(Iテサ5:7)ペテロは斯く言いて先づ評者の非常識と不真面目さとに対して一撃を加へた。
辞解
[朝の九時] 原語「第三時」、日出より起算して日中を十二分する方法による。

2章16節 これは預言者(よげんしゃ)ヨエルによりて()はれたる(ところ)なり。[引照]

口語訳そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、
塚本訳これは(神が)預言者ヨエルをもって言われたこと(が成就して、神の霊に酔っているの)です。
前田訳これは預言者ヨエルによっていわれたことなのです。
新共同そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
NIVNo, this is what was spoken by the prophet Joel:
註解: ヨエ2:28-32の七十人訳より自由に引用せるもの。ヨエルはイスラエルに関しメシヤの出現の時に必ず伴うべき異象につき預言したのであるが、ペテロは之を霊のイスラエルに摘用し、改宗者のみならず一般の異邦人にも(2:39。3:26)及ぶものと解したのである。(M0) 但し之をユダヤ人及改宗者に限る事が当時のペテロの思想であると解する節あれど(E0)必ずしも、かく限定する必要は無い。
辞解
[これは] 以上の如き現象はの意。

2章17節 (かみ)いひ(たま)はく、(すゑ)()(いた)りて、[引照]

口語訳『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
塚本訳神が仰せられる、──最後の日に、“わたしはすべての人にわたしの霊を注ごう。するとあなた達の息子と娘とは預言し、青年は幻を見、老人は夢をゆめみる。
前田訳すなわち、神いいたもう、『終わりの日に、わたしはすべての人にわが霊を注ごう。するとあなた方の息子と娘は預言し、若者は幻を見、年寄りは夢を見よう。
新共同『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
NIV"`In the last days, God says, I will pour out my Spirit on all people. Your sons and daughters will prophesy, your young men will see visions, your old men will dream dreams.
註解: 直訳「終の日に於て」七十人訳にもヘブル原典にも「この後」とありペテロは之を転化したのである。但し双方とも実質上には差異なく、孰(いず)れもメシヤ出顕の直前を指す。

()(れい)(すべ)ての(ひと)(そそ)がん。

註解: 原語「我が霊の中より apo 凡ての肉 pasa sarx に注がん」で神の霊の分与を意味す、「凡ての肉」は「凡ての人」と同義なるヘブル語法なれど、この場合は之に加うるに「人間の弱さ」なる意味をも含むものと解すべきである。かかる者に神の霊が注がるる時彼らは別人となる。

(なんぢ)らの子女(むすこむすめ)預言(よげん)し、(なんぢ)らの若者(わかもの)幻影(まぼろし)()、なんぢらの老人(としより)(ゆめ)()るべし。

註解: 男女老若即ち性と年齢との如何を問わず凡ての人に聖霊が注がるる事を示す。而してその結果彼らは預言し神の言を語る能力を賦与せられ、又肉の目を以て見る事を得ざる幻影を見、又、神の託宣とも言うべき夢を見る。神の霊が注がるる時人々は全く別人となる事を示す。「汝らの見るこれらの人にもこの預言が成就したのである」との意。

2章18節 その()(いた)りて、[引照]

口語訳その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。
塚本訳またその日には、わたしの僕と婢とにわたしの霊を注ごう、”すると彼らは預言する。
前田訳その日には、わが僕とはしためにわが霊を注ごう。すると彼らは預言しよう。
新共同わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
NIVEven on my servants, both men and women, I will pour out my Spirit in those days, and they will prophesy.
註解: 原語「その日には」で終りの日を意味す。

わが(しもべ)婢女(はしため)に、わが(れい)(そそ)がん、(かれ)らは預言(よげん)すべし。

註解: 神を信ずる者はその僕であり婢女である。原文はイスラエルの民につき述べて居るのであるが、茲では之を基督者に適用して居る。聖霊を受けし時始めて真の意味の神の僕となり婢女となるのであるが、神の目には彼らは既に僕、婢女である。預言する事は神の言を代って語る事である。▲聖霊が人の心に宿りこれを動かし語らしめるときそこに預言が生ずる。
辞解
[わが] ヘブル原典になし、従って僕、婢女は卑賤の人を意味すと見る事を得。ここでもこの意味を加味すれば一層適切となるけれども、「わが」とある以上一般に信者を指すと見るべきである。但し B1 は主として之を文字通りの僕婢の意味と解す。
[わが霊を] 前節と同じく「わが霊より」。

2章19節 われ(うへ)(てん)不思議(ふしぎ)を、(した)()(しるし)(あらは)さん、(すなは)()()(けむり)()とあるべし。[引照]

口語訳また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
塚本訳“また”上は“天に不思議なことを、”下は“地に”徴を、“わたしは示そう、すなわち血と火と立ちのぼる煙とを。
前田訳また、わたしは、上には天に不思議を、下には地に徴を、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを示そう。
新共同上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
NIVI will show wonders in the heaven above and signs on the earth below, blood and fire and billows of smoke.
註解: 一方に聖霊降下によりて預言の賜物が与えらるると共に、他方著しき天変地異が起り、之によりてメシヤの来臨とその審きとが天下に告知せられ、人々の心に恐怖と戦慄とを来さしむるに至るであろう。本節後半は地上の徴、次節は天上の不思議である。血、火、煙の気につきては黙16:3-6、8。14:11参照
辞解
[不思議と徴] 異同についてはヨハ4:48註解参照。

2章20節 (しゅ)(おほい)なる顯著(いちじる)しき()のきたる(まへ)に、()(やみ)(つき)()(かは)らん。[引照]

口語訳主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。
塚本訳主の(恐ろしい)大いなる、輝きの日が来る前に、日は暗闇に月は血にかわるであろう。
前田訳主の大いなる輝きの日が来る前に、日は闇に、月は血に変わろう。
新共同主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
NIVThe sun will be turned to darkness and the moon to blood before the coming of the great and glorious day of the Lord.
註解: 「主の日」は旧約聖書に於てエホバの審判の日につき用いられて居ったのを新約に於てはキリスト再臨の日につきて用う。ペテロはここにキリストの再臨の時の事をも併せて考慮に入れたのである。この日は「大にして顕著しき」日であり何人もその前を避くる事が出来ない、天上の異変の記載につきてはマタ24:29。イザ13:10。エゼ32:7参照。この審判の警告の前に凡ての人は戦慄しなければならぬ。

2章21節 すべて(しゅ)御名(みな)()(たのみ)(もの)(すく)はれん」[引照]

口語訳そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
塚本訳そして主の名を呼ぶ者はすべて救われる。”
前田訳そして主の名を呼ぶものは皆救われよう』と。
新共同主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
NIVAnd everyone who calls on the name of the Lord will be saved.'
註解: 「呼び頼む] epikaleōは「呼び掛くる」事で感謝祈祷の態度を指す。即ち信仰的態度を意味す。主の名はキリスト・イエスの名でキリストを救主として信ずる者は救われて神の国の民とせられ永遠の生命に入れられる。たとい前二節の如き天変地異が到る処に起っても主を信ずる者には絶対の平安がある
要義1 [まぼろしを見よ]基督者の信仰は一の幻影である。罪の赦し、身体の復活、キリストの再臨、最後の審判、新天新地の復興等、一として現実的なるはなく皆まぼろしである。しかもこれ等のまぼろしを現実として把握するのは信仰であって、これ等のまぼろしを否定する如き信仰は信仰ではない(ヘブ11:1)。
要義2 [ヨエルの預言] 聖霊が凡ての人に注がれ、凡ての人が主の名を呼び掛けるに至る事は著しき出来事である。その如く基督者は一人一人聖霊を受け一人一人主の御名を呼び掛ける者でなければならない。この事には男女老幼貴賤貧富の区別が無い、この点に於て旧約時代イスラエルが一国民として選ばれし事と、新約時代各個人々々の上に聖霊が注がれし事とは根本的に相違がある事に注意しなければならぬ。但し個人々々の上に注がれし聖霊はその枝であり根本は一に帰して居る点に於て(3節)東洋的神秘的見神悟入と異る。故に基督者は極めて個人的であると共に全体として極めて堅き一体を為す、これが真の教会の姿である。

2章22節 イスラエルの人々(ひとびと)よ、これらの(ことば)()け。ナザレのイエスは、(なんぢ)ら(自身(じしん))の()るごとく、(かみ)かれに()りて(なんぢ)らの(うち)(おこな)(たま)ひし能力(ちから)ある(わざ)不思議(ふしぎ)(しるし)とをもて(なんぢ)らに(あかし)(たま)へる(ひと)なり。[引照]

口語訳イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
塚本訳イスラエル人諸君、(わたしの)この言葉をお聞きなさい。──あのナザレ人イエスは、神が彼によってあなた達の中でかずかずの奇蹟や不思議なことや徴を行い、(救世主であることを)あなた達に証明された人であります。このことはあなた達自身が知っているとおり。
前田訳イスラエル人の方々、このことばをお聞きください、ナザレ人イエスは、神があなた方に力と不思議と徴によって認証なさった方です。これら神が彼によってあなた方の間でなさったことは、あなた方自らご存じのとおりです。
新共同イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
NIV"Men of Israel, listen to this: Jesus of Nazareth was a man accredited by God to you by miracles, wonders and signs, which God did among you through him, as you yourselves know.
註解: ペテロは普通の言語を以て厳粛に彼らに語り始め、先づ彼らの知り居る事実を挙げて彼らをして反駁の余地なからしめた。即ちイエスが彼らの中に行い給える奇蹟を指摘し、之を以て神がイエスの何たるかを明白にし給うたと云う事である。之に対しては彼らも之を否定する事が出来ない訳である。
辞解
[不思議、徴、能力ある業] 執(いず)れも奇蹟の別名であり、同一の奇蹟をその見方の相違より名付けし別名である。
[証す] apodeiknumi(▲「示す」の意味) 確かにそうであるとする事。
[人なり] ペテロは先づイエスを人間として彼らに示し次第に之を神の子として示すの途を取った。

2章23節 この(ひと)(かみ)(さだ)(たま)ひし御旨(みむね)と、(あらか)じめ()(たま)(ところ)とによりて(わた)されしが、(なんぢ)()(ほふ)(ひと)()をもて釘磔(はりつけ)にして(ころ)せり。[引照]

口語訳このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
塚本訳このイエスを、神は一定の御計画と予見とによってくれてやられたところ、あなた達は律法を知らぬ(異教の)人々の手で磔にして殺してしまった。
前田訳彼は神の慎重なご意志と予知によって引き渡され、あなた方が不法の者どもの手ではりつけにして殺しました。
新共同このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
NIVThis man was handed over to you by God's set purpose and foreknowledge; and you, with the help of wicked men, put him to death by nailing him to the cross.
註解: イエスがその敵たるユダヤ人の祭司長学者らに付されしは神が預定し給いし処又預知し給いし所であった。神の側より云えばかくなるべく定って居ったのである。しかし汝らユダヤ人は不法者即ち律法なき異邦人なるロマの兵卒の手をもて彼を十字架につけたのである。ここにキリストの十字架の意義が神の側と人間の側の双方より明かにせられて居るのを見る。キリストの十字架は決して神の意思に反したのでもなく又神の知らざる間に行われたのでもなかった。それにも関らずユダヤ人の罪の罪たる事に変りはない。
辞解
[不法の人] 異邦人を指すと見るべきである(ロマ2:14。Iコリ9:21)。イエスの場合はそれはロマの兵卒であった。ユダヤ人が崇むべきメシヤを異邦人の手にて殺す事は、ユダヤ人に取りて最大の罪である。

2章24節 ()れど(かみ)()苦難(くるしみ)()きて(これ)(よみが)へらせ(たま)へり。(かれ)()(つな)がれをるべき(もの)ならざりしなり。[引照]

口語訳神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
塚本訳しかし神は彼を死の苦痛から解いて復活させられた。死に捕らえられていることが出来なかったからです。
前田訳その彼を神はよみがえらせて死の苦しみから解放なさいました。彼は死に捕えられていることはありえなかったのです。
新共同しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
NIVBut God raised him from the dead, freeing him from the agony of death, because it was impossible for death to keep its hold on him.
註解: 彼には罪なく、従って罪の値たる死に把握せられ居るべきではなかったので、神は彼を復活せしめ給うた。彼の復活は死よりの新生であり、死の中にある事が一の生みの苦しみ ōdin である。即ちイエスの復活は死よりの凱旋である(Iコリ15:54以下。IIテモ1:10)。この場合死の苦難は肉体の死なんとする刹那の苦難を言うのではなく、死なる世界を一の苦痛の世界と観じ之を新生への生みの苦しみと見たのであろう、辞解を見よ。
辞解
[死の苦難] ōdin は産の苦痛を意味す、この場合はむしろ「死の繋ぎ」又は「死の羂(わな)」と読む方が適切である。 ōdin にはこの意味は無いけれども。 ōdin と訳されしヘブル原語 chebel は網又は羂の意もあり(詩18:4、5参照)七十人訳が之をōdin と訳せるものを(M0)上記の如き意味にルカが用いたものであろう。

2章25節 ダビデ(かれ)につきて()ふ、「われ(つね)()(まへ)(しゅ)()たり、()(うご)かされぬ(ため)()(みぎ)(いま)せばなり。[引照]

口語訳ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。
塚本訳現にダビデは彼についてこう言っています。“わたしは絶えず目の前に(神なる)主を見あげた、わたしがぐらつかないように、わたしの右側にいてくださるから。
前田訳ダビデは彼についていっています『わたしは主をたえず目の前に見ていた。彼はわたしがゆらめかぬようにわが右にいたもう。
新共同ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
NIVDavid said about him: "`I saw the Lord always before me. Because he is at my right hand, I will not be shaken.
註解: 本節より28節までは詩16:8以下よりの引用、ペテロはこの詩を以てキリストに関する預言と解した。パウロも亦然り(13:35)。蓋しこの詩はその完き信頼の態度が極めてイエスの生涯に類するのみならず、その中にある復活の預言はダビデに於て実現せざりし故に之は当然キリストに関するものと解したのである。ダビデは常に主なる神との親き霊交に生き、神は恰も法廷に於ける弁護人と被告との関係の如く常にダビデの右に在りて彼を助け給う、この状態はイエスの生涯と同一である。
辞解
詩一六章は多くの異論あるにも関らず多分にダビデの作らしさがある。復活の思想(26、27節、詩16:10)はバビロン捕囚以前には存在しなかったとの理由の下にダビデの作れる事を否定する説があるけれども、絶対的信頼の心を以てエホバに対する時、何人も不死の希望を直感する事が出来る事は否定が出来ない、復活はダビデの如き偉大なる信仰の心の切なる願であり、又之を示されしは霊的啓示であったと見る事が出来る。
[右に坐す] 助けとなる事。

2章26節 この(ゆゑ)()(こころ)(たの)しみ、()(した)(よろこ)べり、[引照]

口語訳それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
塚本訳それゆえにわたしの心は楽しく、舌は(歌をうたって)喜んだ、そればかりか肉体も、(墓にあって)希望のゆえに安らうであろう、
前田訳それゆえわが心はたのしみ、わが舌はよろこびを語った。さらに、わが肉も希望の中に安らおう。
新共同だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
NIVTherefore my heart is glad and my tongue rejoices; my body also will live in hope,
註解: 神に対する絶対的信頼を有つ場合、その人の心は歓喜に溢れ、その舌は喜びて讃美の歌となる。
辞解
[心] kardia 感情を主として居るけれども理性的意志的要素をも含み得る。
[舌] ヘブル語には「我が栄」とあり、「我が魂」を意味す、七十人訳は自由なる意訳なり。

かつわが肉體(にくたい)もまた(のぞみ)(うち)宿(やど)らん。

註解: 心は楽しみ舌は喜ぶ。肉体も亦影響せられずに居る筈はない、神と共に生くるものの肉体は結局に於て滅亡に定められし絶望的存在ではなく、何等かの希望−不死か、復活か−の中に安住するであろう。かく言いて詩人はその信仰の深き体験を通して神の御心の片鱗を窺い知る事が出来た。ペテロは之を以てイエスの復活の預言と見たのである。
辞解
[宿る] kataskēnoō6 天幕の中に安全に住む貌を示す。
[望] ダビデはこの希望の内容を明瞭に意識しなかったろうけれども、ペテロは之を以て復活の希望を示すと解した。ヘブル語の原詩は「我が身もまた平安に居らん」とあり、平安の生活を意味す。

2章27節 (なんぢ)わが靈魂(たましひ)黄泉(よみ)()()かず、(なんぢ)聖者(しゃうじゃ)朽果(くちは)つる(こと)(ゆる)(たま)はざればなり。[引照]

口語訳あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。
塚本訳あなたはわたしの魂を黄泉に捨ておくことはなく、あなたの聖者(救世主)を朽ち果てさせることもないから。
前田訳あなたはわが魂を黄泉(よみ)に捨ておかず、あなたの聖者が朽ちるのを見殺しになさらぬがゆえに。
新共同あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
NIVbecause you will not abandon me to the grave, nor will you let your Holy One see decay.
註解: 詩人は自己の霊魂(生命 psychē )が神との深き交りに生くる事、又神が深く彼を愛し、彼を聖なるものとして取扱い給う事を意識しつつこの確信の呼声を掲げた。彼は神が決して彼を黄泉の中に放置し給う筈がなく又腐朽に帰せしむる事無しと信じたのである。然るに詩人ダビデは事実死してその墓すら残って居る故ペテロはこの詩を以て、キリスト復活の預言と解したのである。まことに適当な解釈である。蓋しかかる霊的高潮に際して人類の至深の願望を表白するのが預言であり、従って預言は人間の念願の頂点であり、之が凡てイエスに於て実現さるべきものなるが故である。故に詩人(ダビデ)が必ずしもメシヤに就て意識しつつこの詩を作ったのであると言う事は出来ず又かくある必要はないが、彼自身に就て言った事が取りも直さずメシヤの預言となったのである。
辞解
[黄泉] hadēs 死者の住家、地下の深所にありと考えられて居った、墓の意味に非ず。
[朽果つること] 即ち「腐朽を見ること」はヘブルの原詩では「坑を見る事」即ち墓の中に入る事と読むべきで「坑」又は「墓」と訳すべき shachath を七十人訳が往々 diaphthora 「腐朽」と訳して居るのは異る語根より出でしものとして解したのである。

2章28節 (なんぢ)生命(いのち)(みち)(われ)(しめ)(たま)へり、御顏(みかほ)(まへ)にて(われ)勸喜(よろこび)滿(みた)(たま)はん」[引照]

口語訳あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。
塚本訳(朽ち果てさせぬばかりか、死から)命(への復活)の道をわたしに知らせてくださった、あなたのそばでわたしの楽しみを満たしてくださるであろう。”
前田訳あなたはいのちの道をわたしに示し、お顔の前でわたしをよろこびで満たしたもう』と。
新共同あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
NIVYou have made known to me the paths of life; you will fill me with joy in your presence.'
註解: 原詩の意味は神が詩人に信仰に由りて生くべき生命の途を示し給いし事、而してこの道を歩む者はエホバの御前に歓喜に満さるるであろう事の意味である。ペテロは之をキリストに適用してキリストが死より生命に復活し給い、かくして神の御顔の前にて、歓喜の中に生き給う事の意味に解した。この両方面は実は同一の事実の両面であるとも云う事が出来る。

2章29節 兄弟(きゃうだい)たちよ、先祖(せんぞ)ダビデに()きて、われ(はばか)らず(なんぢ)らに()ふを()べし、(かれ)()にて(はうむ)られ、()(はか)今日(こんにち)(いた)るまで(われ)らの(うち)にあり。[引照]

口語訳兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
塚本訳兄弟の方々、(この預言をした)祖先ダビデについては、彼は死んで葬られて、その墓は今日までわたし達の間にあると、あなた達にざっくばらんに言ってもよかろう。(彼はすべての人と同じように朽ち果てた。)──
前田訳兄弟たちよ、父祖ダビデについてはあからさまにあなた方にいいえます、彼は死にもし葬られもし、その墓は今日までわれらのところにある、と。
新共同兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
NIV"Brothers, I can tell you confidently that the patriarch David died and was buried, and his tomb is here to this day.
註解: ペテロはダビデに対する尊敬の心を保持しつつ彼の死後の肉体に関する事実を事実として叙べなければならなかった。即ちダビデは上述の詩を作ったけれども、その詩の内容は彼に於て実現せず、彼の肉体は腐朽に帰した事はその墓が現存するの事実を以ても知る事が出来る。夫故にこのダビデの詩はキリストに関する預言と解してのみ意味を為す事となる。
辞解
[兄弟たちよ] 「人々兄弟よ」で14節、22節に比して一層親しみがあり、3:17の「兄弟たちよ」は一層その度を高めて居る(E0)。
[先祖] patriarchēs は主としてアブラハム以下ヤコブの十二の子等を指して居る尊称である。ダビデも王として充分にこの尊称に値して居った。
[ダビデの墓] 称するもの今もエルサレムの東南にあり。

2章30節 (すなは)(かれ)預言者(よげんしゃ)にして、(おのれ)()より()づる(もの)をおのれの座位(くらゐ)()せしむることを、(ちかひ)をもて(かみ)(やく)(たま)ひしを()り、[引照]

口語訳彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
塚本訳だから(この言葉はダビデ自身に関するものでなく、救世主に関するものであることは明らかです。すなわち)彼は預言者であって、神が“彼に、その子孫の一人を王位につかせようと”誓いを“立てられた”のを見て、
前田訳彼は預言者であって、神が彼にその子孫のひとりを王座にすえようと誓われたのを見て、
新共同ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
NIVBut he was a prophet and knew that God had promised him on oath that he would place one of his descendants on his throne.
註解: IIサム7:12、13に神はダビデに誓いその子孫よりメシヤ出でて彼の王位に即くべき事を約束し給うた。
辞解
[己の身より出づる者] 「已の腰の果よりの者」で子孫の事。
[誓をもてーー約し] 「誓をもて誓い」で強きヘブル語調

2章31節 先見(せんけん)して、キリストの復活(よみがへり)()きて(かた)り、その黄泉(よみ)()()かれず、その肉體(にくたい)朽果(くちは)てぬことを()へるなり。[引照]

口語訳キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
塚本訳これは救世主の復活のことであると前から知っていて、こう語ったのです、“彼は黄泉に捨ておかれもせず、”彼の肉体の“朽ち果てることもない”と。
前田訳それがキリストの復活についてであることを予知しつつ『黄泉に捨ておかれず、その肉が朽ちることもない』と語ったのです。
新共同そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
NIVSeeing what was ahead, he spoke of the resurrection of the Christ, that he was not abandoned to the grave, nor did his body see decay.
註解: ペテロの解釈によれば前節の如くダビデの位に坐するものは永遠の位に坐する事故、必ず不死の体を有すべき事を先見して、キリストとして来るべき者は必ず復活して黄泉より出で不朽の体を持つに至る事を預言し、この預言がイエスに於いて実現したのであると云うのである。必ずしもダビデが精確に未来の出来事を先見したと云う意味に解する必要がない。
辞解
本節後半は不定過去動詞を用い既に過去れる事実として録して居る。

2章32節 (かみ)はこのイエスを(よみが)へらせ(たま)へり、(われ)らは(みな)その證人(しょうにん)なり。[引照]

口語訳このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
塚本訳神は(救世主である)このイエスを(預言どおりに)復活させられました。わたし達は皆このことの証人です。(イエスの復活を目の当り見たのだから。)
前田訳このイエスを神はよみがえらせたまいました。われらは皆その証人です。
新共同神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
NIVGod has raised this Jesus to life, and we are all witnesses of the fact.
註解: 24節の思想が再びここに取出され、ダビデの預言せるキリストがこのイエスであった事をその復活によりて証明し、而して使徒たちが取りも直さず復活の証人である事を述べて居る。
辞解
[このイエス] 強き語調、文の首にあり。
[その証人] 「その」は「神の」(B1)「キリストの」(E0)「この事柄の」等と解する事を得。最後の解釈が最も適当である(M0)

2章33節 ()くて)イエスは(かみ)(みぎ)()げられ、約束(やくそく)(せい)(れい)(ちち)より()けて(なんぢ)らの()(きき)する()のものを(そそ)(たま)ひしなり。[引照]

口語訳それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
塚本訳こうして彼は神の右に挙げられ、父上から約束の聖霊を受けて、(いま)あなた達が見もし聞きもするこの聖霊を、(わたし達に)注いでくださったのです。──
前田訳かくて彼は神の右に高められ、父から聖霊という約束のものを受け、あなた方が見もし聞きもするこの聖霊をお注ぎでした。
新共同それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
NIVExalted to the right hand of God, he has received from the Father the promised Holy Spirit and has poured out what you now see and hear.
註解: 復活の当然の結果は昇天である。イエスは神の力強き御手を以て神の右手に挙げられ、父より約束せられし聖霊(ヨハ15:26。16:7)を受けて之をその会衆に注ぎし為にこの汝らが見聞する如き音響、火の舌、異邦の言等となったのである。
辞解
[(原文)] oun「斯くて」「故に」あり、
[神の右に挙げられ] 35節との関係より見れば適訳なるが如きも文法上かく訳する事は困難なりとして「神の右手にて」即ち「神の偉大なる力にて」の意と解すべきであるとする説が多い(A1、B1、C1、E0、M0)。但し「右に」と訳して可なりと主張する学者もある故、この方を採る事とする。
[このもの] 直接に「聖霊」を指すと解する説と漠然と「眼前の事実を起さしめし原因たるもの」と解する説とあり、後者を採る。

2章34節 それダビデは(てん)(のぼ)りしことなし、()れど(みづか)()ふ、「(しゅ)わが(しゅ)()(たま)ふ、[引照]

口語訳ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、
塚本訳なぜなら、ダビデ(自身)は天に上ったのではなく、自分でこう言っているからです。“(神なる)主はわが主(救世主)に仰せられた、『わたしの右に坐りなさい、
前田訳なぜなら、ダビデは天に上ったのではなく、自らこういっています、『主はわが主に仰せられた、わが右にすわりなさい、
新共同ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
NIVFor David did not ascend to heaven, and yet he said, "`The Lord said to my Lord: "Sit at my right hand

2章35節 (われ)なんぢの(てき)(なんぢ)足臺(あしだい)となすまでは、わが(みぎ)()せよ」と。[引照]

口語訳あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。
塚本訳わたしがあなたの敵を(征服して)あなたの足台にしてやるまで』と。”
前田訳あなたの敵をあなたの足台にするまでは』と。
新共同わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
NIVuntil I make your enemies a footstool for your feet."'
註解: 詩110:1。主イエス自らマタ22:44に、この詩を引用してキリストのダビデの子にあらずしてダビデの主たる事を論じ給うた。ペテロも亦この詩を以てダビデがキリストを主と仰ぎし事を証明して居るのを見る。この詩をダビデの詩とすれば彼は主として仰ぐべき人が神の右に坐する事を神が命じ給うた事を知った事となる。従ってキリストの復活は当然の事実であり、ダビデの預言はいよいよその意義を増すこととなる。
辞解
詩110はメシヤ預言と考えられ新約聖書に最も多く引用せらるる詩である(マタ22:44。マコ12:36。ルカ20:42。Iコリ15:25。ヘブ10:13。Iペテ3:22。詩45:6、7)。イエスの時代には之をダビデの詩と一般に信ぜられて居った。今日は之を他の作者の作と見るもの多く「わが主」はその作者の王又は主たる人と見られて居る。もしこれが事実であるとしてもこの詩がその霊的意義に於て一の預言たる事を妨げない。ダビデとメシヤとの上下を証明し得ないにしてもメシヤにも比すべき「主」たる人を至高の地位に崇むる事実のみにてもメシヤの至高的存在たる事の預言として解するに差支は無い。この「わが主」はダビデを指したるものならんとする学者が多い、但しこの説によればダビデの詩ではない事となる。

2章36節 ()ればイスラエルの全家(ぜんか)(しか)()るべきなり。(なんぢ)らが十字架(じふじか)()けし()のイエスを(かみ)()てて(しゅ)となし、キリストとなし(たま)へり』[引照]

口語訳だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
塚本訳だからイスラエルの家全体ははっきり知らねばならない、神はイエスを(立てて)主とし、救世主とされたのに、(人もあろうに)この方を、あなた達は十字架につけてしまったことを!」
前田訳それゆえ、イスラエルの全家ははっきり知るべきです、神はイエスを主とし、キリストとなさったのに、その彼をあなた方は十字架につけたことを」。
新共同だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
NIV"Therefore let all Israel be assured of this: God has made this Jesus, whom you crucified, both Lord and Christ."
註解: 原語の文勢は「さればイスラエルの全家よ確と知れ、神は彼を主又キリストとなしし事を、[然り]汝らが十字架につけしこのイエスを」と言う如き調子で、最後にイスラエル全家の罪を指摘して彼らの心を刺し透した。ペテロの論法は25-35節に於て詩篇によりてダビデがキリストの復活すべき事を預言せる事と、このキリストはダビデの主であり全人類の救主キリストである事とを証明し、而してナザレのイエスを神は主としキリストとし給える事はその復活し給える事で明かである以上、このイエスを十字架に釘けしイスラエルの罪は赦すべからざるものとなるとの論法である。メシヤの来臨を期待して居ったイスラエルにとりて、このペデロの演説が、大問題を投げかけた事は当然である。
要義1 [詩16篇とキリストの復活]もし詩16篇が明かにダビデの作であり、それが復活の預言であるとすれば問題は無いけれども、もし多くの学者の唱える如くこの中に復活に関する思想はないとするならば如何。答、たとい明瞭に肉体の復活を預見したのは無いとしても、真にエホバに対する絶対信頼の生涯に生くる者は、この肉体なる外なる幕屋は日々に衰え行くとも内なる神に依れる人は日々に新なる事は誰しも経験する処の信仰の事実である。真に信仰によって生くるものは不死の予感を有し復活の予告を受ける。この意味に於てこの詩は詩人の主観に示されし復活の啓示であると見るべきである。次にもしこの詩がダビデの作にあらずとせば如何。答、預言は神に代って神の言を語る事である。故にその何人なるかは問題ではない、ダビデたると他の何人たるとを論ぜずこの詩の作者はこの希望をいだいて墓に下った。
要義2 [詩110篇とメシヤの預言]詩110篇がダビデ自身の作詩で、メシヤの預言であるかどうかについては多くの議論があり、学者は多く之を他の一詩人がダビデ又は他の王に対してささげし讃美の詩であると解して居る。もし然りとすれば之をメシヤ預言と解する事が出来ないかと言うに然らず、この詩人の詩想に映ぜし理想の王は、彼の期待し得る最高の王者の姿であって、たといある現実の王者を思い浮べつつこの詩を作ったとしてもその王は理想化せられ居るのであって、この理想の姿は取りも直さずメシヤの姿に相当するのである。その意味に於てこの詩はメシヤ預言であり、従ってその詩人がダビデであると否とを問わない。ダビデも当然メシヤを主と呼ぶべきである。

1-6 エルサレム教会の成立 2:37 - 2:47
1-6-1 三千人バプテスマを受く 2:37 - 2:42

2章37節 人々(ひとびと)これを()きて(こころ)()され、[引照]

口語訳人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
塚本訳人々はこれを聞いて心をえぐられ、ペテロとほかの使徒たちとに言った、「兄弟の方々、わたし達は(大変なことをしたわけです。)いったいどうすればよいのですか。」
前田訳人々はこれを聞いて心をえぐられ、ペテロと他の使徒たちにいった、「兄弟たちよ、われらは何をなすべきですか」と。
新共同人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
NIVWhen the people heard this, they were cut to the heart and said to Peter and the other apostles, "Brothers, what shall we do?"
註解: 彼らはイエスを十字架に釘けしことが斯くも重大なる犯罪である事にこれ迄は心付かずに居った、今この罪を新に感じて彼らの心は刺さるる如き苦痛を感じたのである。

ペテロと(ほか)使徒(しと)たちとに()ふ『兄弟(きゃうだい)たちよ、(われ)(なに)をなすべきか』

註解: 彼らは砕かれし心を以て使徒たちに向い、その態度を決せんとした。真面目なる心を以て救を求むるものは何を為すべきかを問う。
辞解
[兄弟たちよ] 直訳「人々兄弟よ」は「兄弟諸君」と言う如く親密を表す言。ペテロの説教の効果を示す(B1)。

2章38節 ペテロ(こた)ふ『なんぢら悔改(くいあらた)めて、[引照]

口語訳すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
塚本訳ペテロがこたえた、「悔改めなさい。そしてあなた達ひとりびとり、罪を赦されるために、イエス・キリストの名において洗礼を受けなさい。そうすれば(わたし達と同じ)聖霊の賜物を戴くことができる。
前田訳ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そしてめいめいが罪のゆるしのためイエス・キリストの名において洗礼をお受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受けるでしょう。
新共同すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
NIVPeter replied, "Repent and be baptized, every one of you, in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins. And you will receive the gift of the Holy Spirit.
註解: 信仰生活に入るには悔改 metanoia を以て始めなければならない。悔改は単なる後悔ではなく心の態度の全き変革である。これまでの心の態度を打砕きて新なる心を以て出発する事、バプテスマのヨハネも(マタ3:2、8)キリストも(マタ4:17)同様皆悔改の説教を以てその伝道生活を始めた。

おのおの(つみ)(ゆるし)()んために、イエス・キリストの()によりてバプテスマを()けよ、

註解: 悔改めし上、その表徴及び表白としてバプテスマを受くべきである。人は皆かくして罪の赦を獲る事が出来る。而してこのバプテスマはイエス・キリストの名、即ちイエスをキリストと信ずる信仰の告白の基礎の上に epi 行われるものたるを要す。既に神を信じて居ったユダヤ人に取りてはイエスをメシヤ(即ちキリスト)と信ずる事が要点であった。
辞解
[おのおの] 「バプテスマを受けよ」に懸れる語、
[罪の赦のために] (直訳)は「悔改めよ」「バプテスマを受けよ」の二つの命令に関聯する。
[罪の赦しを得んために] ▲「罪の赦しまでに」で「罪の赦しのバプテスマ」のこと。
[名によりて] ここでは epi を用い、「名の基礎の上に」と云う如き意味となる。マタ28:19に三位の神の名を以てバプテスマを施す事をイエスが命じ給えるものとして録さるる事と矛盾するが如くであるけれども、これ等の聖句は何れも之を以て一定の形式を規定せるものと解する事は正しくない。又ユダヤ人は既に神を信じて居る事故、イエス・キリストの名を信ずる事を表白する事を以て足るのである。

(しか)らば(せい)(れい)賜物(たまもの)()けん。

註解: ヨエルによりて預言せられし如く聖霊の賜物はかくの如くに悔改めてバプテスマを受けしものに与えらる。尚要義参照。本節は基督教の根本を要約せるものとも云うべく(C1)悔改むる事、バプテスマを受くる事、罪の赦を得る事、聖霊を受くる事が信者と未信者との差別の全体である。勿論この四者が原因結果の関係があるのではなく、又この順序に循って順次に起るのでもなく、一が他の條件となるのでもない。同一の事実を四方面より見たのである。悔改は人より神に対する関係、バプテスマは旧き自己の死と新しい自己への新生(▲▲の指示により以下の27文字をここに挿入した文字と入れ変えた「バプテスマは神により授けられ、他人に対し信仰を表白する事」編者挿入)、罪の赦は神より人に対する関係、聖霊の賜物は神の恩恵である。

2章39節 この約束(やくそく)(なんぢ)らと(なんぢ)らの()らと(すべ)ての(とほ)(もの)、すなはち(しゅ)なる(われ)らの(かみ)()(たま)(もの)とに()くなり』[引照]

口語訳この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
塚本訳この(聖霊の賜物の)約束は、わたし達の神なる“主が御許に召されるほどの人、”すなわちあなた達と、あなた達の子孫と、”遠くの国々に住む”すべての人とに対するものであるから。」
前田訳この約束は、われらの神である主がお召しのすべての人々、すなわちあなた方とあなた方の子孫と、遠くにいる皆のもののためです」と。
新共同この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
NIVThe promise is for you and your children and for all who are far off--for all whom the Lord our God will call."
註解: 救われて聖霊を注がるる事の約束はユダヤ人及その子孫(この中にはデイアスポラ即ち各地に散り居るユダヤ人をも含む)のみならず遠き者なる異邦人(エペ2:13)にも約束されて居る処である(イザ32:15。44:3。エレ31:31-34。エゼ36:25-27)。神の召し給う処の者は何人たるを論ぜずこの約束の恩恵に与る事が出来る。
辞解
[遠き者] ユダヤ人のデイアスポラを指すと解する学者があるけれども(M0)上記の如く異邦人と解するを可とす(B1、C1、A1、E0)。

2章40節 この(ほか)なほ(おほ)くの(ことば)をもて(あかし)し、[引照]

口語訳ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
塚本訳なお多くのほかの言葉をもって(その確かなことの)証しをし、「曲ったこの時代から救われよ」と言って警告した。
前田訳彼はなお多くのことばで証をし、「この曲がった時代から救われなさい」といって勧めをした。
新共同ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
NIVWith many other words he warned them; and he pleaded with them, "Save yourselves from this corrupt generation."
註解: 以上はペテロの演説の要旨に過ぎないのであるが、彼はこの他多くの語を以て論証してイエスのキリストなる事を告げた。
辞解
[証し] IIテモ2:14。4:1等に「確かに命ず」と訳されて居り、聴者に対する反駁的の心持が含まれて居る、この心持を示すに適する不定過去を用う。

かつ(すす)めて『この(まが)れる()より(すく)()されよ』と()へり。

註解: この世は悪によって曲り歪められて居るのであるが、殊にその時代の人はイエスを拒みその復活を嘲る事により(13節)曲れる代である事を示す。罪を赦されて神の子とせらるる事は同時にこの世とこの時代より救わるる事を意味す。

2章41節 (かく) てペテロの(ことば)聽納(ききい)れし(もの)はバプテスマを()く。[引照]

口語訳そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
塚本訳ここに神の話を受け入れた者は(その場で)洗礼を受け、三千人ばかりの者がその日(集まりに)加えられた。
前田訳彼のことばを受け入れたものは洗礼を受け、その日に三千人ほどが加わった。
新共同ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
NIVThose who accepted his message were baptized, and about three thousand were added to their number that day.
註解: ペテロの説教により、彼らの見聞せしイエスの事を思い出し、その復活の事実を信じてイエスのキリストなる事を知るに至った者は、ユダヤ人の待ち望んで居ったメシヤの来臨を知って心の目が開かれその罪を悔改めて新なる人に更生した。この意味に於て彼らとユダヤ人とは全く異れる信仰を持って居り、之を表明する為にバプテスマを受けた。「聴納れ」は「受納れ」る事でイエスを拒みし事を悔改めて、始めてペテロの説教を受納れる事が出来る。

この()弟子(でし)(くは)はりたる(もの)、おほよそ(さん)(せん)(にん)なり。

註解: 「この場合一回の説教を以て数千人がキリストに回心して居るにも関らず、百回の説教も我らの中の数人を辛うじて動かし得るに過ぎない」(C1)。尚この三千人が同時にその場所でペテロ一人よりバプテスマを受けしや否や等につき学者間に意見の相違あり、学者の想像に任せる。

2章42節 (かれ)らは使徒(しと)たちの(をしへ)()け、交際(まじはり)をなし、パンを()祈祷(いのり)をなすことを只管(ひたすら)つとむ。[引照]

口語訳そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。
塚本訳彼らは使徒たちの教えを固く守り、(信者の)交わりと、(一緒に)パンを裂くことと、祈りとに余念がなかった。
前田訳彼らはひたすらに使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
新共同彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
NIVThey devoted themselves to the apostles' teaching and to the fellowship, to the breaking of bread and to prayer.
註解: 信仰に入りし者はその入信後に之に相応しく又之に必要なる生活を送る事が緊要である。最初の基督者の信仰生活がここに四つの項目を以て代表的に示されて居り(1)彼らは使徒たちより新なる福音、イエス・キリストの福音を熱心に学んだ、この福音は聖書(今の旧約聖書)によりて証明せられ、之を完成する処のものであった。(2)交際 koinōnia 即ち心を以てする愛の一致、行動、思想の一致のみならず(ガラ2:9。ピリ2:1。Iヨハ1:3、7)、物質を以てする相互扶助を熱心に行った(ロマ15:26。IIコリ8:4。9:13)。(3)共同の食事(愛餐と称せらる)又は家庭の食事(46節參照)の際に主イエスの死を記念した、これが聖餐式の始めである。(4)祈祷はユダヤ教に規定せられし定時の祈祷の外に基督者としての自由な祈祷を行ったものと思はれる。「赦」なしに信仰は空虚となり「交際」なしに相互の愛は冷却し、聖餐なしにキリストに対する望と、相互一体の意識が消え、祈なしに神との関係は冷却する。
辞解
[教] 教理や神学ではなく、福音書に示さるる如きイエスを信ずる信仰を基礎とする実際的教訓。
[交際] 単に物質的の相互扶助に限る事又は単に霊的の一致に限る事は何れも正しくない。両者一体たるを要す。
[パンを擘(さ)く] ルカ24:30には普通の食事の事を云うけれども、本節及び46節は基督者の共同の食事を意味す、而してこれは当然イエスの最期を想起す食事となり聖餐式の起源となった。
要義1 [バプテスマに就て]キリスト時代以前より、異邦人がユダヤ教に回宗せる際、之にバプテスマを授ける習慣があった。バプテスマのヨハネはこの形を套襲して悔改のバプテスマを施し、基督教徒も亦聖霊の降下と結付ける事により更にその意義を深めて之を行った。ユダヤ教との区別を明かにする上に特に必要であったからである。キリストはヨハネよりバプテスマを受け給うたけれども自らは之を弟子に施し給わなかった。又イエスが之を弟子たちに命じ給ひしや否やは、マタ28:19。マコ16:16によりて確定し得ない事は多くの学者の説である。パウロはバプテスマの意義を一層深いものにしたけれども(ロマ6:1以下)自らは強て之を施さなかった(Iコリ1:14-17)。又バプテスマの授与は必ず聖霊降下を伴うものでも無かった(8:16。19:1-5)。又パウロの諸書簡に表わるる如く、バプテスマを信仰と共に救の条件の一と考えるべきではない。以上の諸点より考うる時、バプテスマは新なる信仰の告白と、新に信徒の一団に加わる事を告白する儀式であって、基督者がキリストと共に死し共に甦りて新なる生命に歩む事(ロマ6:1-4)を表明するに最も相応しき形式として今日に至るまで行われて居る。
要義2 [イエス・キリストの名に由るバプテスマ]初代教会に於ては多く主イエスの名によるバプテスマが行われた(8:16。10:48。19:5。22:16。ロマ6:3)。これはユダヤ人には神の名を以てバプテスマを施す必要が無かったから(B1)との理由のみではなく、異邦人と雖もイエスを神の子と信ずる事が信仰の中心であり、又その特徴であった為である。
要義3 [信仰生活の四綱領]「彼らは使徒たちの教と、交り(コイノーニア)と、パンを擘(さ)く事と、祈祷とに専念せリ」(42節直訳)とあるは信仰生活の必要なる四方面を示して極めて適切である。この大切なる四方面が今日凡て形式と化し去りつつある事は懼るべき堕落である。形式的に説教や聖餐式や祈祷会を行って行く事は無益である。これ等が凡て信仰の生命として躍動しなければならない。初代教会の溌刺たる生命を見よ。
要義4 [交り] koinōnia 「共通」を意昧しキリストに在りて一体たる基督者相互、及びキリストと基督者、神と基督者との間の一体の関係を示すに最も適当なる言葉である。之は単なる聖餐式の如き儀式を云うにあらず、霊的物質的の凡てのものの共通を云う。従って霊の交りの意味ともなり(Iヨハ1:3、6、7。ガラ2:9。ピリ2:1)又物質の施与の意味ともなり(ロマ15:26。IIコリ8:4。9:13。ヘブ13:16)行動の共通の意味ともなる(ピリ4:15。Iテモ5:22。Iペテ4:13)。凡ての意味に於て基督者の対人対神関係を示す最も適当なる語である。
要義5 [パンを擘(さ)く事]この語は本来食事をする事の意味であるけれども、もしそれだけの事であるならば42節46節に特に之を記す必要はない。この語は、当時信徒が相会して食事をする場合に主の最後の晩餐を回想し、主の体としてのパンを擘(さ)き、主の血としての葡萄酒を飲む事の意味となった。即ち常食のパンと葡萄酒は基督者の会食に於て特別の意義を持ったのである。この会食即ち愛餐(アガペー)はキリストを想起すに絶好の機会であり、又方法であった。後に至って愛餐と聖餐式とが分離するに至り、前者は廃れ後者は益々一の形式と化するに至った(Iコリ11:17-22註。IIペテ2:13。ユダ12参照)。

1-6-2 使徒団の生活状態 2:43 - 2:47

2章43節 ここに(ひと)みな敬畏(おそれ)(しゃう)じ、(おほ)くの不思議(ふしぎ)(しるし)とは使徒(しと)たちに()りて(おこな)はれたり。[引照]

口語訳みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。
塚本訳恐れをいだかぬ者とてはなかった。使徒たちによって、多くの不思議なことや徴が行われたのである。
前田訳すべてのものがおそれをいだいた。多くの不思議や徴が使徒たちによってなされたのである。
新共同すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
NIVEveryone was filled with awe, and many wonders and miraculous signs were done by the apostles.
註解: 使徒たち及びその他の弟子たちの上記の如き厳粛なる信仰生活により、一般の人々の心に彼らに対する尊敬と畏怖の念を生ぜしめた。之によりて教会は最初より迫害を受けずに居る事が出来たのであろう。基督者の生活はその如く人をして自ら襟を正さしむるものでなければならぬ。又使徒たちは多くの奇蹟を行った。その中のあるものは後に録さるる如きものである。聖霊の異常なる働きにより異常なる事が行われる事は当然である。
辞解
[敬畏] phobos で畏怖の心持、但しここでは神を畏るる心ではない。

2章44節 (しん)じたる(もの)はみな(とも)()りて諸般(すべて)(もの)(とも)にし、[引照]

口語訳信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
塚本訳そして信者になった者は皆一緒に集まっていて、一切の物を共有し、
前田訳信仰に入ったものは皆いっしょになってすべてを共有し、
新共同信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
NIVAll the believers were together and had everything in common.
註解: 非常に親密なる生活を送った事を示す。「偕に居る」と云うも必ずしも皆一軒の家に住んだと云う意味ではなく(12:12を見よ)「諸般の物を共にし」た事も凡ての信者が凡ての財産を皆投出して共有にしたとの意味でもない(5:4。6:1)。彼らは互に相愛した結果互に一家族の如くに親しく往来し、自己の財産を全く自分の私物と思わない為に必要に応じて(45節)之を他人の為に費す事恰も自己の為に費す如き態度であった事を示す。尚要義1参照。
辞解
[偕に居り] 原語「一つ処に居り」(2:1)であるが之を「心を一にし」と解する説(C1)もある。尚47節の「かれらの中に」も同一の語を用う。

2章45節 資産(しさん)所有(もちもの)とを()り、各人(おのおの)(よう)(したが)ひて()(あた)へ、[引照]

口語訳資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
塚本訳土地や持ち物を売っては、必要に応じてそれを皆に分配した。
前田訳財産や持ち物を売っては必要に応じてそれを皆に分けた。
新共同財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
NIVSelling their possessions and goods, they gave to anyone as he had need.
註解: 凡ての信者がその凡ての財産を売却して分配したと云うのではなく、信者の間に貧しき者があり之等を助くる必要ある場合に之を扶助せんが為に(6:1)自己の資産を売却して之を助けたものと解すべきである。尚要義1参照。
辞解
[資産] ktōmata は主として不動産、huparxeis は動産に用う。尚この二節はその精神に主眼を置きて解すべきであって、之を文字の外面より形式的に解すべきではなく、又之を一の律法の如くに見るべきではない。前節の「共にし」本節の「売り」「分け与え」等皆未完了動詞で一時的ならずしばしば繰返さるる行為につき用う。

2章46節 日々(ひび)(こころ)(ひと)つにして(たゆ)みなく(みや)()り、[引照]

口語訳そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、
塚本訳また毎日、心を一つにして(熱心に)宮に詣で、家々で(一緒に)パンを裂き、喜びと純な心とで食事をして、
前田訳そして日ごと心をひとつにして欠かさず宮に行き、家々でパンを裂き、よろこびと真心とで食を共にし、
新共同そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
NIVEvery day they continued to meet together in the temple courts. They broke bread in their homes and ate together with glad and sincere hearts,
註解: 彼らはキリストをメシアとして受ける事は宮の礼拝と断絶する事ではなく、之を完成成就する事と考えたので益益熱心に日々宮に居ってその敬虔の態度を示した(ルカ22:53参照)。エルサレム教会の基督者の態度としてこの点を特記する必要があった位である。

(いへ)にてパンをさき、

註解: kata を用いて居る故之を15:21。マタ24:7。ルカ8:1の場合と同じく「家々にて」と訳す方が適当である。即ち集会を家庭毎に行い、その処にて会食をなし、その機会に主イエスを記念するパンと葡萄酒とを用いた。かくして彼らの間に主にある一体たる親密さとキリストを記念する心とが愈々増すに至った。三千人が皆同時にかく行ったのでは無い事勿論である。

勸喜(よろこび)眞心(まごころ)とをもて食事(しょくじ)をなし、

註解: 会食によりて彼らは貧富貴賎の別を超越して一同食事に与り、欠乏を感じなかった。その処に何等の苦痛なくして唯歓喜があり又何等の虚栄なく唯純朴なる心持があるのみであった。まことに美わしき信徒の社会である。

2章47節 (かみ)讃美(さんび)して一般(すべて)(たみ)(よろこ)ばる。[引照]

口語訳神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。
塚本訳神を讃美し、世間の人全体に好意を持たれていた。主は救われた者を日ごとに(増し)加えて一つにされた。
前田訳神をたたえ、民全体に好意を持たれていた。そして主は救われるものを日ごと加えていっしょにされた。
新共同神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
NIVpraising God and enjoying the favor of all the people. And the Lord added to their number daily those who were being saved.
註解: 彼らは歓喜と感謝に充ち言葉に又歌に神を頌めたたえた。又彼らの平和にして正しき生活は一般の民の喜ぶ処となった。イエスの場合と同じく彼らに迫害が及ぶ様になったのは職業宗教家の嫉視による事が多かった。

()くて(しゅ)(すく)はるる(もの)日々(ひび)かれらの(うち)(くは)(たま)へり。

註解: 彼らの信仰とその生活状態とを見て基督教の信仰に入りて救わるる者が多くあった。而してこれは皆主イエスの御業であった。かくして初代基督教会の濫觴たるエルサレム教会は静かに而も力強く発達して進んで行った。
要義1 [信仰的共産生活]「信じたる者はみな・・・諸般の物を共にし、資産と所有とを売り各人の用に従いて分け与え」とあるは、一見近代人の主張する共産主義社会を形成せるが如くに見えるけれども、今日の経済学上の共産主義とは稍(やや)趣を異にする事に注意しなければならぬ。即ちエルサレム教会の共産生活は信仰による自由なる自然的奉仕の結果であって、法律的政治的の強制によったものではなかった。即ち(1)エルサレム以外には行われし形跡なく(タビタの慈善は之を証明する(9:36)。又11:29も財産不平等の事実を示す)、(2)資産の売却は強制せられず、私有財産制は認められて居リ(5:4。12:12)、(3)財産の平等は実現せず(6:1)、(4)財産の没収等の事なく、(5)又エルサレム以外にこの種の社会的変革を強要又は薦奨せる形跡が無い。要するにエルサレムに於ける共産的生活は信仰をその主体とし原動力とした生活であって、恰も一の家族の如く、各人は各自己の所有を有し乍ら之を自己のものと考へず(4:32)、兄弟中に必要を生ずる場合喜んで自己の所有を売却して之を分け与えたものと解すべきである。真の幸福なる共産生活は心の共産である、法律的、政治的共産社会に真の幸福は有り得ない。尚エルサレム教会の貧困の原因をこの共産生活に帰して居る学者があるけれども、之をその全部の原因として説明する事は必ずしも妥当ではない。
要義2 [共産主義と基督者]政治問題として共産主義を考うる場合は、人間を「肉的なるもの」との前提の下に考えなければならない。従って共産的社会はその長所と共に之に伴う短所を発揮する事が当然の帰結である。例えば自由の喪失、個人の発達の停滞、企業心の消失、能カの不平等の無視、怠惰の奨励等である。之を信仰問題として考うる時、あらゆる財産は神より托せられし者であり神の欲し給う処に循って之を使用する。故に所謂共有財産にあらず神有財産主義となる。もし基督者相互の交りが完全であるならば政治的に共産社会を強制せずとも、共産主義以上に祝福せられし社会を実現し得る筈である。個人主義の思想があまりに強調せられし結果今日の基督教会に初代エルサレム教会の如き精神が喪失せる事は甚だしき遺憾である。

使徒行伝第3章

分類
2 エルサレムに於ける使徒の活動 3:1 - 7:60
2-1 ペテロとヨハネの活動 3:1 - 4:31
2-1-1 ペテロ、ヨハネ跛者(あしなえ)を医す 3:1 - 3:10

註解: 2:43の不思議と徴の数々の中よりその一つを選び之が迫害の機会となりし事を録す。

3章1節 (ひる)三時(さんじ)、いのりの(とき)に、ペテロとヨハネと(みや)(のぼ)りしが、[引照]

口語訳さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、
塚本訳さて昼の三時の祈りの時間に、ペテロとヨハネとが宮に上ろうとすると、
前田訳ペテロとヨハネは祈りの時である午後三時に宮へ上って行った。
新共同ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
NIVOne day Peter and John were going up to the temple at the time of prayer--at three in the afternoon.
註解: 彼らはユダヤ人の信仰とその習慣とを尊重し之を実行して居った。殊に日々の祈は欠かさず之を行う事が必要である。
辞解
[昼の三時] 原語第九時で今の午後三時頃に当る。
[いのりの時] 第三時、第六時、第九時と三回行われたとの説あり、又早朝と第三時と夕刻とに行われたとの説もある。
[上る] 未完了過去形を用い、日々繰返さるす動作を示す。実際に門内に入ったのは8節となる。

3章2節 (ここ)(うま)れながらの跛者(あしなへ)かかれて(きた)る。(みや)()(ひと)より施濟(ほどこし)()ふために日々(ひび)(みや)美麗(うつくし)といふ(もん)()かるるなり。[引照]

口語訳生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。
塚本訳(ちょうどその時、)母の胎内からの足なえの男がかつがれて来た。彼は宮に入る人たちに施しを乞うため、宮の、いわゆる「美しい門」に毎日置かれたが、
前田訳すると生まれつき足なえの男が運ばれて来た。彼は宮詣での人々に施しを乞うために、毎日、美しい門といわれる宮の門に置かれていた。
新共同すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
NIVNow a man crippled from birth was being carried to the temple gate called Beautiful, where he was put every day to beg from those going into the temple courts.
註解: この種の物乞ひが宮又は寺院の附近に集る事は古今東西類を同じうする。これ人間の良心が最も良く働いて居る場所を選ぶ自然の傾向である。美しき宮の傍に坐する乞食の姿は御国を近くに有ちつつ物質を求めて止まない人類の姿に酷似す。
辞解
[かかれて来る---置かるるなり] 等は皆未完了過去形で日々繰返さるる動作を示す。「かかれて---置かれるのであった」と言う様な意味。
[美麗門] 何れの門か不明、二三の説があるけれども不確実であり、多数説はケデロンの谷を西に渡りたる処のニカノル門ならんとの説である。

3章3節 ペテロとヨハネとの(みや)()らんとするを()施濟(ほどこし)を(()けん(こと)を)()ひたれば、[引照]

口語訳彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。
塚本訳(いま)ペテロとヨハネとが宮に入って行くところを見て、しきりに施しをもらいたいと頼んだ。
前田訳彼はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、しきりに施しを乞うた。
新共同彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
NIVWhen he saw Peter and John about to enter, he asked them for money.
註解: 人は往々にして彼に取りて最も必要なるものを求めずして第二義以下のものを求める。この跛者も癒さるる事を求めずして施済を求めた。永遠の生命を求めずしてこの世の富貴を求むる者もこれに類して居る。
辞解
[受けん事を] 訳語を欠く、しかし意味の上に支障はない。

3章4節 ペテロ、ヨハネと(とも)()()めて『(われ)らを()よ』と()ふ。[引照]

口語訳ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
塚本訳ペテロは、ヨハネと一緒に、その人に目をとめて言った、「わたし達(の顔)を見なさい。」
前田訳ペテロはヨハネとともに彼を見つめていった、「われらをごらん」と。
新共同ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
NIVPeter looked straight at him, as did John. Then Peter said, "Look at us!"
註解: 奇跡は心の感応無しには行われない。使徒等はかく言いて跛者の注意を喚起したのである。

3章5節 かれ(なに)をか()くるならんと、(かれ)らを()つめたるに、[引照]

口語訳彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、
塚本訳彼が何かもらうことを予期して二人を見つめていると、
前田訳彼は何かもらえると思って彼らをじっと見ていた。
新共同その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
NIVSo the man gave them his attention, expecting to get something from them.
辞解
[みつめる] 訳されし epechō はむしろ注意を集中する事を意味す。

3章6節 ペテロ()ふ『(きん)(ぎん)(われ)になし、()れど(われ)()るものを(なんぢ)(あた)ふ、ナザレのイエス・キリストの()によりて(あゆ)め』[引照]

口語訳ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
塚本訳ペテロが言った、「金銀は持っていない。わたしの持っているもの、それをやろう。──ナザレ人イエス・キリストの名で歩きなさい!」
前田訳ペテロがいった、「銀や金はわたしにない。しかしわたしにあるもの、それをあげる。ナザレ人イエス・キリストの名でお歩き」と。
新共同ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
NIVThen Peter said, "Silver or gold I do not have, but what I have I give you. In the name of Jesus Christ of Nazareth, walk."
註解: 「イエス・キリストの名によりて」とはその跛者に、イエスに対する信仰を呼起さんとしたのであった。ぺテロ、ヨハネの所有する最大の宝はナザレのイエス・キリストであった。この宝は之を用いても尽くる事なき生命の源である。而してイエスの生命を内に蔵するものはイエスの力を受け彼と同じく奇蹟を行うの力がある。
辞解
[金銀は我になし] この言より(1)使徒たちの赤貧、(2)イエスの命令の遵守(ルカ12:33)、(3)又は使徒たちの金銀は信徒団の共同管理に属して居った事等を結論せんとする事は稍過当である。ペテロ、ヨハネの心中にはこの跛者に与うべき金銭を持たなかった。それはそれ以上の宝を彼に与えんとしたからである。

3章7節 (すなは)(みぎ)()()りて(おこ)ししに、(あし)(かふ)踝骨(くるぶし)とたちどころに(つよ)くなりて、[引照]

口語訳こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、
塚本訳そして右手でつかんで起こすと、たちどころに足と踝とが強くなり、
前田訳そして右手をつかんで起こした。するとたちまち足とくるぶしが強くなり、
新共同そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
NIVTaking him by the right hand, he helped him up, and instantly the man's feet and ankles became strong.

3章8節 (をど)()ち、(あゆ)()して、(かつ)あゆみ(かつ)をどり、(かみ)讃美(さんび)しつつ(かれ)らと(とも)(みや)()れり。[引照]

口語訳踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
塚本訳踊り上がって立って、歩きまわった。そして彼らと一緒に宮に入っていった、歩きまわりながら、踊りながら、神を讃美しながら。
前田訳躍りあがって立ち、歩きまわった。そして彼らとともに宮に入り、歩いたり躍ったりしながら神をたたえた。
新共同躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
NIVHe jumped to his feet and began to walk. Then he went with them into the temple courts, walking and jumping, and praising God.
註解: ペテロに与えられし奇蹟力によりて生来の跛者は医され、生れて始めて立ちて歩む事が出来た。その歓喜と感謝の念は如何に深かった事であろう。8節はこの短き文章の中に跛者の(1)完全に医されし姿、(2)その絶大なる喜び、(3)その信仰的革命、(4)その使徒たちに対する感謝と愛着が極めて自然に且巧に描き出されて居るのを見る。
辞解
[足の甲] baseis は踝骨より下の部分、「踝骨」と共に医音ルカの描寫の特徴を示す
[躍り立ち] 「躍りて立ち上り」の意、おどりは歓喜のあまり跳躍する事、
[彼らと共に宮に入る] 使徒たちに対する愛着の心を示す。

3章9節 (たみ)みな()(あゆ)み、また(かみ)讃美(さんび)するを()て、[引照]

口語訳民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、
塚本訳民衆はことごとく、その人が歩きまわったり、神を讃美したりするのを見て、
前田訳民衆は皆彼が歩き、また神をたたえるのを見た。
新共同民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
NIVWhen all the people saw him walking and praising God,

3章10節 (かれ)(さき)乞食(こつじき)にて(みや)美麗(うつくし)(もん)()しゐたるを()れば、この(おこ)りし(こと)()きて驚駭(おどろき)奇異(あやしみ)とに()ちたり。[引照]

口語訳これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。
塚本訳これが宮の美しい門のわきに坐っていて、施しを乞うていた者だと気がつくと、その身に起こったことに、ただ驚き呆れるばかりであった。
前田訳そして彼が宮の美し門のところにすわっていて施しを乞うていたものと知ると、皆はその身におこったことについておどろきと怪しみに満たされた。
新共同彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
NIVthey recognized him as the same man who used to sit begging at the temple gate called Beautiful, and they were filled with wonder and amazement at what had happened to him.
註解: 10節は「これが物乞わんとて美麗門に坐しいたる彼なるを認め」と訳すべきである。ペテロの行える奇蹟は跛者自身のみならず一般の民に異常なるおどろきを与えた。罪より救はれし一人の基督者ももしこの跛者の如くに行動するならばそれは一般の人々に同様の驚駭を与える。
辞解
[驚駭] thambos は感情の方向、
[奇異] ekstasis は理性を超越せる茫然自失の状態。
要義1 [最大の賜物]人類に与えられし最大の賜物はイエス・キリストである。神は彼を賜うほどに世を愛し給うた。然るに人類はこの賜物を受くる事を知らずして無価値なる物質的の賜物を受けん事に熱中して他を顧みない。しかしながら人は一旦眼開かれてイエスを受くるに至れば、この賜物の価値の無限なる事を知るが故に他の賜物を顧ざるに至る。物乞いしつつあった跛者の姿と、躍リつつ歩める彼の姿とを比較せよ。
要義2 [救われし者の態度]癒されし生来の跛者の姿及び態度は救われし罪人のそれらに酷似して居る。生来の罪の桎梏の下にその無力を嘆く罪人は、一旦罪より解放たれて義とせらるるに至れば、足と踝骨とが強くなり確信を以て立上る事が出来る。彼はその大歓喜の故に手の舞い足の躍るを知らない。かくして彼の心は救の神を讃美し、彼の愛と感謝の念は泉の如くに流れ出でて、彼にこの救主イエスを伝えし人々に注がれる。かくして救われし基督者は歓喜と希望と、感謝と愛と力との生活を送る事が出来るのである。

2-1-2 ペテロ、イエスを宣伝う 3:11 - 3:26

3章11節 ()くて(かれ)がペテロとヨハネとに()りすがり()るほどに、(たみ)みな(はなは)だしく(をどろ)きてソロモンの(らう)(とな)ふる(らう)()せつどふ。[引照]

口語訳彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。
塚本訳(喜びのあまり)その人がペテロとヨハネとにすがりついているので、人々が皆びっくりして、いわゆるソロモンの回廊にいた二人の所へかけ集まってきた。
前田訳彼がペテロとヨハネにすがっているので、民衆は皆おどろいて、いわゆるソロモンの回廊にいた彼らのところに駆け寄って来た。
新共同さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。
NIVWhile the beggar held on to Peter and John, all the people were astonished and came running to them in the place called Solomon's Colonnade.
註解: 前の跛者はその恩人に対する愛着より堅くペテロとヨハネとに取りすがってソロモンの廊(ヨハ10:23註参照)まで至り、群集はおどろきの余り群を為して馳せ集った。

3章12節 ペテロこれを()(たみ)(こた)ふ『イスラエルの人々(ひとびと)よ、(なん)()(こと)(あや)しむか、(なん)(われ)らが(おのれ)能力(ちから)敬虔(けいけん)とによりて()(ひと)(あゆ)ませしごとく、(われ)らを()つむるか。[引照]

口語訳ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。
塚本訳ペテロが見て、人々に話しはじめた。「イスラエル人諸君、なぜこのことをそんなに驚くのですか、また、なぜそんなにわたし達を見つめるのですか、わたし達が自分の力か信心で、この人を歩かせでもしたかのように。
前田訳それを見てペテロが民衆にいった、「イスラエル人の方々、なぜこのことにおおどろきですか。また、なぜわれらをお見つめですか、あたかもわれらが自らの力か信仰で彼を歩かせたかのように。
新共同これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。
NIVWhen Peter saw this, he said to them: "Men of Israel, why does this surprise you? Why do you stare at us as if by our own power or godliness we had made this man walk?
註解: ペテロの弁舌は12-16節と16節以下との二つの部分より成る。第一の部分に於てはイエスの死と復活とその能力とを示してこの神の子を殺せる者の罪を指摘し、第二の部分に於ては預言に照してイエスのキリストなる事と且つ彼の来り給うべき事の神の約束とを彼らに示し、かくして民に信仰と悔改とをせまって居る。ペテロはイエスを示さんが為に先づ己の力と信仰とを人々の目より隠して、イエスの助に凡てを帰せんとして居るのである。伝道者の務は人をイエスに導き、イエスに紹介するに在る。イエスを隠して自己の偉大を示さんとする偽伝道者の態度とは天地の差異あり。
辞解
[敬虔] eusebeia ここでは信仰と同義に用いられて居るけれども、本来信仰よりも広き意味を有する文字。

3章13節 アブラハム、イサク、ヤコブの(かみ)、われらの先祖(せんぞ)(かみ)は、その(しもべ)イエスに榮光(えいくわう)あらしめ(たま)へり。[引照]

口語訳アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
塚本訳(わたし達の力ではありません。)“アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわちわたし達の先祖の神が、”“その僕”イエス“に(こんな力のあることを示して、彼に)栄光をお与えになったのです。”ところがあなた達は、このイエスを(総督ピラトに)引き渡し、ピラトは赦そうと決心したのに、ピラトに面と向かって、あなた達は彼を否認しました。
前田訳アブラハムとイサクとヤコブの神、われらの先祖の神がその僕イエスに栄光をお与えでした。しかるにあなた方は彼を引き渡し、ピラトがゆるすと決めたのに、その面前で拒みました。
新共同アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。
NIVThe God of Abraham, Isaac and Jacob, the God of our fathers, has glorified his servant Jesus. You handed him over to be killed, and you disowned him before Pilate, though he had decided to let him go.
註解: ペテロはイエスに就き述ぶるに中り、イエスの父たる神を呼ぶにアブラハム以下の先祖の名を以てした。これ聴く処の群衆に対して一層適切に自己の神が即ちイエスの父たる事を思わしめんが為であった。この神はイエスをしてその生存中はその恩恵と真理とに充てる事とその多くの徴と業と教とにより、又その死後はその復活昇天により、今は又この跛者を立たしむる事により常に栄光あらしめ給うた、これイエスの神の御子たる事の証である。
辞解
[僕] pais は「子」の意味もあり、又かく訳すべしとする学者もあるけれども、この場合はイザ40-66章即ち第ニイザヤ殊にその53章の「エホバの僕」の事に関聯ある故、これを「僕」と訳するを可とす(マタ12:18。使3:26。4:27、30參照)。
[エホバの僕] エヴエド・ヤーヴエーはイスラエルの民の理想の姿であるけれどもその最も完全なる形はイエスに於て表われた。

(なんぢ)()このイエスを(わた)し、ピラトの(これ)(ゆる)さんと(さだ)めしを、()(まへ)にて(いな)みたり。

註解: 異邦人の官吏たるピラトすらイエスを釈さんとせるにユダヤ人なる汝等之を否みて死に付した。
辞解
[その前にて] 「その面前にて」非常に大胆なる公然の拒否を意味す。この点にイエスの弟子たちとユダヤ人との間の対立がある。
[ピラト] 及びこの前後の成行につきては福音書を見よ(引照セ)。

3章14節 (なんぢ)らは、この聖者(しゃうじゃ)義人(ぎじん)(いな)みて、殺人者(ひとごろし)(ゆる)さんことを(もと)め、[引照]

口語訳あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、
塚本訳ほんとうにあなた達はあの聖なる人、正しい人を否認し、人殺し(のバラバの方)をゆるしてもらうようにと(総督に)願って、
前田訳あなた方は聖また義にいますものを拒み、人殺しをゆるしてもらうよう求め、
新共同聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
NIVYou disowned the Holy and Righteous One and asked that a murderer be released to you.

3章15節 生命(いのち)(きみ)(ころ)したれど、(かみ)はこれを死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)へり、[引照]

口語訳いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。
塚本訳(とうとう)命の先達(であるイエス)を殺してしまった。しかし神はその方を、死人の中から復活させられました。わたし達はそのことの証人です。
前田訳いのちの君を殺しました。その彼を神は死人の中からお起こしでした。われらはその証人です。
新共同あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
NIVYou killed the author of life, but God raised him from the dead. We are witnesses of this.
註解: ユダヤ人の罪の甚だしさを叱責し、之を対照的描写を以て示して居る。即ち[聖者、義人]と「殺人者」、「殺人者」と「生命の君」、「否む」と「釈す」、「殺す」と「甦らす」を以て彼らの為す事が如何に甚だしき誤謬であったかを示す。
辞解
[聖者] キリストにつきしばしば用いられし語(マコ1:24。ヨハ6:69。Iペテ1:15)。
[義人] (7:52。22:14及イザ53:11)特にキリストを指す。
[釈す] 原語恩恵的に釈放する事
[生命の君] 「生命の先導者」「生命の創始者」等を意味す(ヨハ14:6。10:28。5:26)。この生命の君を殺す事の大罪を彼らは犯した、しかし神かれを甦らせ給いしが故に彼のメシヤたる事が確実に証明せられ、彼らの罪は明かにせられた。

(われ)らは()證人(しょうにん)なり。

註解: 使徒はキリストの復活の証人である(1:22)。復活の事実を外にして基督教はない。

3章16節 (かく)てその御名(みな)(しん)ずるに()りてその御名(みな)は、(なんぢ)らの()るところ()るところの()(ひと)(つよ)くしたり。イエスによる信仰(しんかう)(なんぢ)()もろもろの(まへ)にて(かか)全癒(ぜんゆ)()させたり。[引照]

口語訳そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。
塚本訳そしてあなた達が現に見ており知っているこの人は、イエスの名を信じたので、その名が彼(の足)を強くしたのであり、またその名によって働いた信仰が、あなた達みんなの目の前で、彼を全快させたのです。
前田訳イエスの名を信じたゆえに、あなた方が見、また知るこの人をその名が強くしたのです。イエスによる信仰が皆さんの前でこの人を全快させたのです。
新共同あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
NIVBy faith in the name of Jesus, this man whom you see and know was made strong. It is Jesus' name and the faith that comes through him that has given this complete healing to him, as you can all see.
註解: イエスの力はイエスを信ずる者の上に働く、信仰は神の力の通路である。イエスの名(即ちイエス)は彼を信ずる者を健くして全癒を得させる。信仰はイエスによりて与えられ、イエスに対して働きかけ、イエスより働きかけられる。神癒の秘儀はここにあり。ペテロは斯く反復イエスの名を繰返す事によりて彼らの上に強き印象を与えんとして居るのである。
辞解
[信ずるに因りて] epi を用い「信仰の基礎の上に」の意味となる。
[イエスによる信仰] dia を用い「イエスを通して与えらるる信仰」の意味である。

3章17節 (さて)兄弟(きゃうだい)よ、[引照]

口語訳さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。
塚本訳こんな次第だから、兄弟たちよ、あなた達は、(最高法院の)役人たちも同様、知らないで、(命の先達を殺すようなあんなことを)したのだと、わたしは知っています。
前田訳さて、兄弟方、あなた方が知らずにしたことはわかっています。あなた方の指導者もそうでした
新共同ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
NIV"Now, brothers, I know that you acted in ignorance, as did your leaders.
註解: 茲よりペテロは更に進んでユダヤ人に呼びかける。

われ()る、(なんぢ)らが、かの(こと)()ししは()らぬに()りてなり。(なんぢ)らの(つかさ)たちも(また)(しか)り。

註解: ペテロはここに声を和らげ叱責より転じて悔改のすすめとなる。而して主イエスの宣(のた)まいしと同様(ルカ23:34)、彼らの罪をその無智の故に帰して彼らを赦さんとして居るのである。「司たち」の場合に於てはその罪は勿論重くあったけれどもペテロは之をも赦さんとして居るのである、愛の前には凡ての罪が赦される。

3章18節 ()れど(かみ)(すべ)ての預言者(よげんしゃ)(くち)をもてキリストの苦難(くるしみ)()くべきことを(あらか)じめ()(たま)ひしを、()くは成就(じゃうじゅ)(たま)ひしなり。[引照]

口語訳神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。
塚本訳しかし神はすべての預言者の口をもって、その救世主が苦しみをうけることを予告しておられたのであって、それをこんな風に成就されたのです。
前田訳神はすべての預言者の口をとおして、神のキリストが苦しむことを予告し、それをこのように成就されました。
新共同しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
NIVBut this is how God fulfilled what he had foretold through all the prophets, saying that his Christ would suffer.
註解: ユダヤ人が無智の故にキリストを殺したのであるが、一面神の側よりすれば、之は旧約の凡ての預言者の預言せるキリストの受難の預言の成就であった。従ってかく成らざるを得なかったのである。ユダヤ人の罪は勿論罪である、しかし一面に於てそれは神の御計画であった。
辞解
[凡ての預言者] 旧約聖書は凡ての方面よりキリストの受難を指示して居る。必ずしも数的に「凡て」の意味ではない。

3章19節 ()れば(なんぢ)(つみ)()されん(ため)に、悔改(くいあらた)めて(こころ)(てん)ぜよ。[引照]

口語訳だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。
塚本訳だから(今すぐ)悔改めて、心を入れかえ(て主に帰り)なさい。そうすればあなた達の罪が拭い去られる。
前田訳それゆえ、罪が拭い去られるよう悔い改めて立ち返りなさい。
新共同だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
NIVRepent, then, and turn to God, so that your sins may be wiped out, that times of refreshing may come from the Lord,
註解: ユダヤ人の罪は如何に深くとも神が之を赦し給わない筈はない。唯汝らは悔改むる事と神に転向(回心)する事とが必要である。之によりて神は汝の罪を消し去り給う。「バプテスマを受けよ」を欠く点より見るもペテロがこの種の形式に対する見方の如何を知る事が出来る。尚2:38註参照。
辞解
[罪を消す] 罪の記憶を止めざる事、旧約聖書にしばしば用いらる(詩51:1、9。イザ43:25。エレ18:23)。
[心を転ず] epistrephō は英語の convert で「回心」と称せらるる宗教的心理を指す、文字としては「転向」を意味す。神に背向き居りしものが神の方に向きかわる事。

3章20節 これ(しゅ)御前(みまへ)より慰安(なぐさめ)(とき)きたり、[引照]

口語訳それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。
塚本訳これは(また)主の御前から休息の時が来て、主があなた達のため救世主として選ばれたイエスをお遣わしになるためです。
前田訳それは主のみ前からいこいの時が来て、主があなた方にキリストとして予定されたイエスをおつかわしのためです。
新共同こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
NIVand that he may send the Christ, who has been appointed for you--even Jesus.
註解: キリスト再臨の時来りと云うに同じ、ユダヤ人の悔改が完了する時キリストの再臨がある。
辞解
[主の御前より] 原語「主の面より」で、慰安の時が主の御許に保留せられて居るとの思想より来る。「慰安の時」は「元気回復の時」を意味し、万物の復興と新天新地の創造により死の支配の下にある全世界が新なる生命に甦る時、

(なんぢ)らの(ため)(あらか)じめ(さだ)(たま)へるキリスト・イエスを(つかは)(たま)はんとてなり。

註解: 神はキリストを再び遣して世の救を完成する事を預定し給う、而して人々を悔改めしめその罪を赦すのも皆この万物の救の完成の準備工作である。この意味に於て本節と前節との関係が明かにせらる。

3章21節 (いにし)へより(かみ)が、その(せい)なる預言者(よげんしゃ)(くち)によりて、(かた)(たま)ひし萬物(ばんぶつ)(あらた)まる(とき)まで、(てん)(かなら)ずイエスを()けおくべし。[引照]

口語訳このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。
塚本訳イエスは、神が遠い昔から聖なる預言者たちの口をもって仰せられた(とおりに、)万物が新しくなる時まで天が受け入れておかねばならないのです。
前田訳天は彼をば万物の革新の時までお受けせねばなりません。これについて神は昔からその聖なる預言者の口をとおしてお語りでした。
新共同このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
NIVHe must remain in heaven until the time comes for God to restore everything, as he promised long ago through his holy prophets.
註解: 万物復興の時はイエスの再臨の時である。この時迄はイエスは天に神の御許に在し給う、この万物復興の事は聖預言者たち、即ち旧約聖書に古えより預言せらるる処である(イザ65:17。66:22)
辞解
[万物の革まる時] この思想に道徳的方面と物質的方面との双方がある。イスラエルがカナンの地を失いてより、その回復(1:6)を望む心が切であった。之はマラ4:5、6 に於ては道徳的意味に於てエリヤによりて実現せらるるものと解し、主イエスはその意味に於て語り給うた(マタ17:11。マコ9:12)。しかしながらアダム以来詛われし自然界にも亦復興の必要が感ぜられ(ロマ8:19-22)、これ等の凡てが完全に実現する時はイエスの再臨の時であると信ぜられた(IIペテ3:13。黙21:1-5)。「天は必ずイエスを受けおくべし」を「イエスは必ず天を受けおくべし」と読まんとする学者があるけれどもその必要はない。

3章22節 モーセ()へらく「(しゅ)なる(かみ)(なんぢ)らの兄弟(きゃうだい)(うち)より()がごとき預言者(よげんしゃ)(おこ)(たま)はん。その(かた)(ところ)のことは(なんぢ)()ことごとく()くべし。[引照]

口語訳モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。
塚本訳モーセは言いました、『“神なる主はあなた達の兄弟の中から、わたしのような一人の預言者をあなた達のために起こされる。”あなた達に“語ることは何ごとによらず、その言うことを聞け。”
前田訳モーセはいいました、『主なる神はわたしになさったように、あなた方の兄弟の中からひとりの預言者をお立てでしょう。彼が語ることはすべてお聞きなさい。
新共同モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
NIVFor Moses said, `The Lord your God will raise up for you a prophet like me from among your own people; you must listen to everything he tells you.

3章23節 (すべ)てこの預言者(よげんしゃ)()かぬ(もの)(たみ)(うち)より(ほろぼ)(つく)さるべし」[引照]

口語訳彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。
塚本訳”この預言者の言うことを聞かない者はだれでも、民の中から絶ちほろぼされる”』と。
前田訳その預言者のいうことを聞かないものは、すべて民から絶やされましょう』。
新共同この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
NIVAnyone who does not listen to him will be completely cut off from among his people.'
註解: 申18:15、18-19の七十人訳よりの自由なる引用(且つ最後の一句は全く変更されて居る)。この箇所は「来るべき預言者」に関する聖句として考えられ、ヨハ1:21、25。6:14。7:4等はこの来るべき預言者に対する当時の人々の期待の切なりし事を示す、ステパノもこの節を引用して居る(7:37)。ペテロは21節の「聖なる預言者」の例としてこの「モーセ」と「サムエル以来の預言者」(24節)との二方面を挙げて居る。この預言にある通りこの預言者に聴かぬ者は滅し尽される。汝らもイエスを殺してその審判か免れる事は出来ないとの意。
辞解
[我がごとき預言者] キリストを指せるに非ずと論ずる学者あれど、この預言は何人にもまさりてキリストに於て成就した、キリストは「真の預言者」に在し給う。「滅し尽さるべし」はヘブル語及七十人訳の原文には「我これを報いん又は罪せん」とあり、ペテロは一層強き文字を以て、かかる者の罪は到底赦さるべからざる事を示す。

3章24節 (また)サムエル以來(このかた)かたりし預言者(よげんしゃ)(みな)この(とき)につきて宣傳(のべつた)へたり。[引照]

口語訳サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。
塚本訳また(モーセだけでなく)、サムエルとそれに続くすべての預言者も、神の言葉を)語った者はみな、その(休息の)日のことを告げ知らせました。
前田訳サムエルはじめ、彼につづく預言者でおよそ語ったものは、すべてその日のことをのべ伝えました。
新共同預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。
NIV"Indeed, all the prophets from Samuel on, as many as have spoken, have foretold these days.
註解: モーセ以後暫くの間預言者の出現が無かったけれども、サムエル以来又多くの預言者あらわれ、彼等は何れも「この日」即ち主イエス出現の日につき預言して居るのである。「この聖書は我につきて証するものなり」(ヨハ5:39)とある如く聖書の預言はキリストに集中する。この聖書とその預言とを無視してはならない。
辞解
原文は「サムエル以来の凡ての預言者及びその後に来る語りし人々」とあり重複して居る。「サムエル」は預言者の首と云われて居った。
[この時] 「この日」で万物の革まる日を指すとする説あれどむしろキリストの来り給う日を指すと見るべきである。キリストの出現が聖書の中心問題である。

3章25節 (なんぢ)らは預言者(よげんしゃ)たちの子孫(しそん)なり、(また)なんぢらの先祖(せんぞ)たちに(かみ)()(たま)ひし契約(けいやく)子孫(しそん)なり、[引照]

口語訳あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。
塚本訳あなた達はこれらの預言者の子であり、神がアブラハムに、“またあなたの末(なる救世主)によって地上のすべての民族が祝福をうける”と仰せられて、あなた達の先祖と結ばれた契約は、当然あなた達に適用があるのです。
前田訳あなた方は預言者の子であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です。神はアブラハムにいわれました、『あなたの子孫によって地のすべての民族が祝福されよう』と。
新共同あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。
NIVAnd you are heirs of the prophets and of the covenant God made with your fathers. He said to Abraham, `Through your offspring all peoples on earth will be blessed.'
註解: 汝らユダヤ人はイエスの事を預言せるこの預言者たちの子孫である故、この預言に忠実でなければならぬ、又先祖アブラハム以来しばしば神がイスラエルと契約を立て給うたのであるが、汝らはこの契約の子孫即ち契約により神と結ばれし民の子孫である故この契約の履行につき確信を持たなければならぬ。

(すなは)(かみ)アブラハムに()(たま)はく「なんぢの(すゑ)によりて()諸族(しょぞく)はみな祝福(しくふく)せらるべし」

註解: 神の立て給いし契約とは創28:14の神の契約を指して居るのであって、ペテロはパウロと同じく(ガラ3:16)之を以てアブラハムの裔たるキリストによりて地の諸族が祝福せらるる事を指したものと解した。即ちイエス・キリストはこの神の契約に基いてこの世に来臨し給うたのである。かかる約束を受けて居るに関らずこの約束を無視してキリストを迫害するものの罪は大きい。
辞解
[契約] diathēkē につきてはヘブ7:22辞解参照。
[裔] sperma 単数名詞なれど普通子孫の多数をも指す。唯ガラ3:16にパウロは之をキリストを指すと解す、その処註参照。
[諸族] 諸家族の意。本来創28:14には「諸の族」とあり異邦の民を指して居るけれどもここではペテロはイスラエルを指さんがために之を「家族」の意味に変更した。

3章26節 ()くて(かみ)はその(しもべ)(よみが)へらせ、まづ(なんぢ)らに(つかは)(たま)へり、これ(なんぢ)各人(おのおの)を、その(つみ)より()びかへして祝福(しくふく)せん(ため)なり』[引照]

口語訳神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。
塚本訳そこで神はまずあなた達のためにその僕(イエス)を(モーセのような預言者として)起こして、お遣わしになりました。これはあなた達がひとりびとりその悪から離れた時に、彼があなた達を祝福するようにというのです。」
前田訳まずあなた方のために神はその僕を起こしておつかわしでした。それはあなた方のおのおのがその悪から離れることによって、あなた方を祝福なさるためです」と。
新共同それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」
NIVWhen God raised up his servant, he sent him first to you to bless you by turning each of you from your wicked ways."
註解: 私訳「神はその僕を起して先づ汝らに遣し各々をその罪より立還らしめて汝らを祝福し給えり」25節の契約を実現する為に神は先づイエスを立ててメシヤとなし而して先づ第一に彼をイスラエルの人々に遣し給うた(やがて異邦人にも遣さるべきであった事は勿論である(13:46。ロマ1:16、11:11)。而してイスラエルの人々をその罪より立還らしむる事によりて彼らを祝福した、イエスの祝福は人々を罪より救い出し罪より離れしむるに在った。ユダヤ人が期待せる如くロマの束縛より政治的に解放せらるる事ではなく罪の束縛を脱するに在った。これにまされる祝福はない。▲祭司等の絶対支配の下にある宮の中でペテロがこの大説教を行ったことは大事件であり、ユダヤ教の祭司制度と宮中心の宗教に対する真正面からの反対であった。従って直ちに正面衝突が起こった。次章を見よ。
辞解
[甦へらせ] anistēmi はかく訳し得る文字であるけれども、この場合は22節の「預言者を起し給わん」と同じく「起す」と訳すべきである。(▲この場合「起し」または「立てて」と訳すべきである)
[遣し給えり] 勿論復活のキリストを遣した意味ではない。故に「甦へらせ」は不適当である。
[その罪より呼びかへし] 「その罪より転ぜしめ」である。之を自動詞的に「汝ら各々その罪より立還る時」(M0)と読む説あり、19節「心を転ぜよ」と同語故かく読む事は可能であるけれども、この場合は他動詞的に読むを可とす。但し「呼びかへす」は適訳ではない。
要義1 [イエスを崇めよ]ペテロはその行える奇蹟につき驚駭(きょうがい)せる人々の心を、ペテロより転じてイエスに向わしめた(12、16節)。基督教の本質はイエス・キリストを崇め、彼を神として拝するにある。従って個人の悟りやその心の境地や、又その修養の程度等は問題ではない。救はイエスの御名を信ずるにあり、信仰絶対主義、信仰唯一主義である。
要義2 [信仰の具体性---キリスト礼拝]基督教の信仰の特異性は、その信仰の対象の極めて具体的なる点にある。即ち真理とか、絶対とか、愛とか義とか言う如き抽象的観念を信仰の対象とするのではなく、ポンテオ・ピラトの時ユダヤ人らによりて十字架に釘けられて殺され、而して三日目に甦りしナザレのイエスを信仰の対象として居るのである。この十字架のイエスこそは我らの主である。然るにこれはユダヤ人には躓となりギリシヤ人には愚となる。されど我ら救わるる者には神の智慧であり又力である。即ち基督教はキリスト礼拝の宗教である。キリスト無しの神礼拝はキリスト教の本質を失えるものである。
要義3 [預言の宗教]旧約聖書にはキリストの生るべき事(22節)、その苦難を受くべき事(18節)、その甦るべき事(2:27、31)、その再び来給う事(1:11)、その万物を復興せしめ給う事(イザ65:17。66:22)、彼によりて万国の民が祝福せらるべき事(創28:14。その他)等凡てが預言せられて居るのみならず、旧約聖書の祭事や犠牲(レビ記参照)もイエスの贖罪の型であり、イスラエルの歴史は基督者の生涯の縮図であり、かくして全聖書が歴史も教訓も預言も皆このイエスに集中し、イエスの預言たる如き性質を示して居るのを見る。これ等の事実はイエスの創始に関る宗教が神の永遠の経綸の顕現である事を証拠立てて居るのであって、イエスの福音の永遠的なる事、その非個人的なる事(イエス個人のみより姶まれるものにあらざる事)、イエス崇拝が即ち神崇拝たる事を示して居る。もし旧約の預言を以て証明せらる事が無いならば、イエスの宗教は他の諸宗教との間に本質的差別が無い事となる。預言の成就と言う事の如きは。ユダヤ人のみに興味がある事で、我らには無関係なるが如くに思う人があるけれども、それは大なる誤である。預言がありその成就がある事により、基督教の永遠性と確実性と唯一性とが確保せられて居るのである。