黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ルカ伝

ルカ伝第9章

分類
5 イエスの本質に対する弟子の訓練 9:1 - 9:50
5-1 十二弟子の派遣 9:1 - 9:6
(マタ10:1-14) 

9章1節 イエス十二(じふに)弟子(でし)()()せて、もろもろの惡鬼(あくき)(せい)し、(やまひ)をいやす能力(ちから)權威(けんゐ)とを(あた)へ、[引照]

口語訳それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。
塚本訳それから(前に選んだ)十二人(の弟子)を呼びあつめて、すべての悪鬼を支配し、また病気をなおす力と全権とを授けた上、
前田訳十二人を呼び集めて、すべての悪鬼を押え、病をいやす力と権威を与え、
新共同イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
NIVWhen Jesus had called the Twelve together, he gave them power and authority to drive out all demons and to cure diseases,

9章2節 また(かみ)(くに)宣傳(のべつた)へしめ、(ひと)(いや)さしむる(ため)に、(これ)(つかは)[さんとして](し(たま)ふ。)[引照]

口語訳また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして
塚本訳神の国(の福音)を説いたり、病気を直したりするために派遣された。
前田訳神の国をのべ伝えていやしをするよう彼らをつかわされた。
新共同そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
NIVand he sent them out to preach the kingdom of God and to heal the sick.
註解: 十二弟子を伴い教えを宣べ、病を醫し、死者を甦えらせ給える(8章)後、ここにイエスは始めて十二弟子に独立の歩みを為さしめ給うた。そのためにまずイエス御自身が有ち給うたと同様の能力と権威とを彼らにも有たしめて悪鬼を制し、病を醫すことを為させ、彼らを二人ずつ一組として(マコ6:7註)遣し、福音の宣伝と、治癒とを行わしめ給うた。イエスの霊の力が彼らの中に注がれたのである。

(かくて)()(たま)ふ、

9章3節 (たび)のために(なに)をも()つな、(つゑ)(ふくろ)(かて)(ぎん)も、また(ふた)つの下衣(したぎ)をも()つな。[引照]

口語訳言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。
塚本訳彼らに言われた、「旅行には何も──杖も、旅行袋も、パンも、金も持ってゆくな。着替えの下着も持ってはならない。
前田訳彼らにいわれた、「道中何も持つな、杖も、袋も、パンも、金も。下着の替えも持つな。
新共同次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
NIVHe told them: "Take nothing for the journey--no staff, no bag, no bread, no money, no extra tunic.
註解: 伝道旅行のためには少しの贅沢も許されないのは勿論少しの準備も必要としない。凡ての必要は、これを神によって供給賜与されることを信じて旅立すべきである。福音を受け、治癒に与る人々が感謝をもってそれらを弟子たちに献ぐべきである。当時の社会では未知の旅人を親切に接待することは、凡ての人の義務と考えられていたので今日とは事情を異にし、今日これを文字通り実行することはできないが、この精神は今日も充分にこれを生かして行かなければならない。マコ6:8には杖だけは携帯しても可しとあるが、マルコはこれをもって所持品の貧弱さを示し、ルカとマタイは杖すら所持することを禁ずることによって、伝道者の無所有の姿を強調したのであろう。杖そのものに格別の意味はない。二つの下衣を持つとは着換えをもつこと。

9章4節 いづれの(いへ)()るとも、其處(そこ)(とどま)れ、(しか)して其處(そこ)より()()れ。[引照]

口語訳また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。
塚本訳ある家に入ったら、(その町を去るまでは)その家に泊まっていて、そこから(次の町へ)立ってゆけ。
前田訳家に入ったら、そこに泊まってそこから出かけよ。
新共同どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
NIVWhatever house you enter, stay there until you leave that town.
註解: すなわち同一の市邑にいる中は宿所を変更してはいけない。これはその家の人に対する信頼の態度であると共に如何なる場所にも満足すべきことを意味す。接待に対する不満等のために宿所を変えてはならぬ。3、4節により衣食住に対する伝道者の態度を教えている。挺身・信頼・満足の態度である。

9章5節 (ひと)もし(なんぢ)らを()けずば、その(まち)()()るとき、(あかし)のために(あし)(ちり)(はら)へ』[引照]

口語訳だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。
塚本訳人があなた達を歓迎しないなら、(すぐ)その町を(出てゆけ。そして)出てゆくとき、(縁を切ったことを)そこの人々に証明するため、足の埃を払いおとせ。」
前田訳人々があなた方を歓迎しないなら、その町を出るとき彼らへの証のために足のちりを払い落とせ」と。
新共同だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
NIVIf people do not welcome you, shake the dust off your feet when you leave their town, as a testimony against them."
註解: 次は対人的態度を教えている。すなわち黒白を、明白にすべきことである。足の塵を払うことはその町の不信の精神の汚れを塵一つ附着せしめないことを表徴しており、その町に対する審(さば)きの表示である。

9章6節 ここに弟子(でし)たち()でて村々(むらむら)()(めぐ)り、あまねく福音(ふくいん)宣傳(のべつた)へ、(いや)すことを()せり。[引照]

口語訳弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。
塚本訳十二人は出かけていって、村から村へとあるき回りながら、到る所で福音を説き、また病気をなおした。
前田訳彼らは出かけて、村から村へとまわり、至るところで福音を説き、また病をいやした。
新共同十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
NIVSo they set out and went from village to village, preaching the gospel and healing people everywhere.
註解: 師イエスと同じく弟子たちもこの二点にその活動の中心を置いた。「村々」とあるは「町々」は(8:1)イエスも巡回し給うたことと、その数が少ないので弟子たちには村々に力を注がしめ給うたためであろう。

5-2 イエスの本質 9:7 - 9:43
5-2-イ ヘロデとイエス 9:7 - 9:9
(マタ14:1-2) (マコ6:14-16)   

9章7節 さて國守(こくしゅ)ヘロデ、ありし(すべ)ての(こと)をききて周章(あわ)てまどふ。(ある)(ひと)はヨハネ死人(しにん)(うち)より(よみが)へりたりといひ、[引照]

口語訳さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、
塚本訳これは一切の出来事が領主ヘロデの耳にはいると、彼はすっかり不安になった。ある人は(イエスのことを洗礼者)ヨハネが死人の中から生きかえったのだと言い、
前田訳領主ヘロデはこれらの出来事すべてを耳にして、心平らかではなかった。あるものはヨハネが死人の中から復活した、
新共同ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、
NIVNow Herod the tetrarch heard about all that was going on. And he was perplexed, because some were saying that John had been raised from the dead,

9章8節 (ある)(ひと)はエリヤ(あらは)れたりといひ、また(ある)(ひと)は、(いにし)への預言者(よげんしゃ)一人(ひとり)よみがへりたりと()へばなり。[引照]

口語訳またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。
塚本訳ある人は(預言者)エリヤが現われたと言い、またほかの人は、昔のある預言者が生き返ったのだと言ったからである。
前田訳あるものはエリヤが現われた、またほかのものは昔のある預言者がよみがえった、といったからである。
新共同「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。
NIVothers that Elijah had appeared, and still others that one of the prophets of long ago had come back to life.
註解: ヘロデはヘロデ大王の子ヘロデ・アンテパス、詳細はマコ6:14参照。良心に平安なき者は、国王といえども義しき一匹夫イエスの前に周章狼狽する。エリヤは死なずに昇天したので(U列2:11)再び現れるであろうと信じられた。イエスがそれであると或人はいう。然らずばヨハネが生き返ったかまたは預言者の一人が復活したのであると噂された。

9章9節 ヘロデ()ふ『ヨハネは(われ)すでに首斬(くびき)りたり、(しか)るに()かる(こと)のきこゆる()(ひと)(たれ)なるか』[引照]

口語訳そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。
塚本訳しかしヘロデは言った、「ヨハネは(確かに)わたしが首をはねた。だが、こんな噂を聞くその男はそもそも何者だろう。」彼はイエスに会いたいと思った。
前田訳しかしヘロデはいった、「ヨハネはわたしが首をはねた。このようなうわさを聞くその男はだれだ」と。彼はイエスに会いたく思っていた。
新共同しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
NIVBut Herod said, "I beheaded John. Who, then, is this I hear such things about?" And he tried to see him.
註解: すでに首を斬ったのだからその復活は信じられないのであったろう。ただしマコ6:16にはヘロデもかく信じたように録している。この矛盾は理由不明、ルカは異なった伝説を基礎としたものと思われる。

かくてイエスを()んことを(もと)めゐたり。

註解: 「求めゐたり」は未完了過去形で常々求めつづけていたことを示す。恐いもの見たさのためと、イエスを恐るるに及ばないという確信を得たかったのであろう。しかし「イエスは宮廷に入ることに慣れず、ヘロデはイエスのために己が宮廷を出づることを必要と考うるごとき人間ではなかった」(B1)。ただしこのヘロデの願いは23:6−15において充された。囚人としてのイエスを見たのでヘロデは殊の外喜んだ(23:8)。彼の人格の卑劣さを見ることができる。マタ14:3−12.マコ6:17−29はこれにつづいてヨハネの死について録しているけれども、ルカはこれを省略した。ギリシャ、ローマの人々のヨハネに対する無関心のためであろう。

5-2-ロ 五千人の賜食 9:10 - 9:17
(マタ14:13-21) (マコ6:30-44) (ヨハ6:1-13)  

9章10節 使徒(しと)たち(かへ)りきて、()()しし(こと)(つぶさ)にイエスに()ぐ。[引照]

口語訳使徒たちは帰ってきて、自分たちのしたことをすべてイエスに話した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。
塚本訳(さて十人の)使徒たちは帰ってきて、(旅行中に)したことをみなイエスに話した。イエスは彼らを連れて、自分たちだけベツサイダという町の方へ引っ込まれた。
前田訳使徒たちは帰って来て、したことのすべてをイエスに話した。イエスは彼らを連れて、そっとベツサイダという町へ退かれた。
新共同使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
NIVWhen the apostles returned, they reported to Jesus what they had done. Then he took them with him and they withdrew by themselves to a town called Bethsaida,
註解: 6節より本節に連絡する。その間に経過せる期間は不明。

イエス(かれ)らを(たづさ)へて(ひそか)にベツサイダといふ(まち)退(しりぞ)きたまふ。

註解: これはヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐ処の東方にある小漁村でヘロデ・ピリポが皇帝アウグスト・ユリアスの娘の記念にこの村を改造したのでベテサイダ・ユリアスと呼ばれていた。イエスが弟子たちだけを携えて群衆を避けようとされたのは、弟子のみを静かに教育するためであった。イエスを離れた活動は空騒ぎとなる。

9章11節 されど群衆(ぐんじゅう)これを()りて(したが)(きた)りたれば、(かれ)らを()けて、(かみ)(くに)(こと)(かた)り、かつ治療(ちれう)(えう)する人々(ひとびと)(いや)したまふ。[引照]

口語訳ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。
塚本訳しかし群衆がそれと知ってついて来たので、これを迎えて神の国のことを語り、また治療を要する人々を直された。
前田訳群衆がそれと知って、ついて来たので、彼らを迎えて神の国について語り、手当を要するものをなおされた。
新共同群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
NIVbut the crowds learned about it and followed him. He welcomed them and spoke to them about the kingdom of God, and healed those who needed healing.
註解: 群衆に接することは、ベテサイダに退いた目的に反していたけれども、求める心に対して強く引かれ給うイエスの愛は、彼らを「接(う)け」ずにいることができなかった。そして神の国のことを教うること、治癒を要する人を醫すことの二つを何時ものごとくに行い、そして日の暮るるをも忘れ、食事のこをすら忘れ給うた。マルコの記事をルカは簡略にし多くの緊要ならざる細目を除いている。

9章12節 ()(かたぶ)きたれば、十二(じふに)弟子(でし)きたりて()ふ『群衆(ぐんじゅう)()らしめ、周圍(まはり)(むら)また(さと)にゆき、宿(やど)をとりて食物(しょくもつ)(もと)めさせ(たま)へ。(われ)らは()かる(さび)しき(ところ)()るなり』[引照]

口語訳それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。
塚本訳日が傾きかけると、十二人は来てイエスに言った、「群衆を解散させ、まわりの村や部落に行って宿を取らせ、食事をさせてください。わたし達はこんな人里はなれた所にいるのですから。」
前田訳日が傾きかけると、十二人がおそばへ来ていった、「群衆を解散させ、まわりの村や里へ行って宿らせ、食事をさせてください。われらはこんな人里離れたところにいますから」と。
新共同日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
NIVLate in the afternoon the Twelve came to him and said, "Send the crowd away so they can go to the surrounding villages and countryside and find food and lodging, because we are in a remote place here."
註解: 群衆は自己の飢えをも忘るるほどイエスに引き付けられていた。最も事務的な平凡な焦慮を示したのは、弟子たちであった。

9章13節 イエス()(たま)ふ『なんぢら食物(しょくもつ)を((かれ)らに)(あた)へよ』[引照]

口語訳しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。
塚本訳彼らに言われた、「あなた達が自分で食べさせてやったらよかろう。」彼らが言った、「手許にはパン五つと魚二匹よりありません、わたし達が行って、このみんなの食べる物を買ってこないことには。」
前田訳彼はいわれた、「あなた方が食べ物をお与えなさい」と。彼らはいった、「パン五つと魚二匹しか手もとにありません、われらがこの人たち皆の食べ物を買いに行かないかぎり」と。
新共同しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
NIVHe replied, "You give them something to eat." They answered, "We have only five loaves of bread and two fish--unless we go and buy food for all this crowd."
註解: 弟子たちに不可能を命じて、不可能を可能ならしめる神を示さんとし給う。

弟子(でし)たち()ふ『(われ)らただ(いつ)つのパンと(ふた)つの(うを)とあるのみ、()(おほ)くの(ひと)のために、()きて()はねば(ほか)食物(しょくもつ)なし』

註解: 直訳「もし我ら往きてこの民凡てのために食物を買ふにあらざれば、我らには五つのパンと二つの魚とより外になし」。

9章14節 (をとこ)おほよそ()(せん)(にん)ゐたればなり。[引照]

口語訳というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。
塚本訳男五千人ばかりもいたからである。「五十人ぐらいずつ組にして坐らせなさい」と弟子たちに言われた。
前田訳男五千人ほどがいたからである。彼は弟子たちにいわれた、「五十人くらいずつ組にしてすわらせなさい」と。
新共同というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
NIV(About five thousand men were there.) But he said to his disciples, "Have them sit down in groups of about fifty each."
註解: イエスの命令を実行することは絶対に不可能であった。

イエス弟子(でし)たちに()ひたまふ『人々(ひとびと)(くみ)にして()(じふ)(にん)づつ()せしめよ』

9章15節 (かれ)()その(ごと)くなして、人々(ひとびと)をみな()せしむ。[引照]

口語訳彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。
塚本訳そのように、皆を坐らせた。
前田訳彼らはそのとおりにして、皆をすわらせた。
新共同弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
NIVThe disciples did so, and everybody sat down.
註解: 弟子たちのイエスに対する絶対信頼と絶対服従を見よ、彼らはイエスが何を為さんとし給うかを、問うことだにしなかった。

9章16節 かくてイエス(いつ)つのパンと(ふた)つの(うを)とを()り、(てん)(あふ)ぎて(しゅく)し、()きて弟子(でし)たちに(わた)し、群衆(ぐんじゅう)のまへに()かしめ(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。
塚本訳するとイエスは(いつも家長がするように、)その五つのパンと二匹の魚を(手に)取り、天を仰いでそれを祝福したのち、(パンを)裂いて、群衆に配るように弟子たちに渡された。
前田訳彼はその五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いでそれを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに渡された。
新共同すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
NIVTaking the five loaves and the two fish and looking up to heaven, he gave thanks and broke them. Then he gave them to the disciples to set before the people.
註解: イエスの祝福を受けると小量のものも無限の力を有す。イエスの態度は、平常十二弟子と共に食し給う時と全く同じであった。神にとっては一人も千人のごとく千人も一人のごとくである。無尽蔵の物質を支配し給う神は物量を問題とし給わない。イエスの祝福は物の価値を無限大に拡大する。

9章17節 (かれ)らは(くら)ひて(みな)()く。()きたる(あまり)(あつ)めしに十二(じふに)(かご)ほどありき。[引照]

口語訳みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。
塚本訳皆が食べて満腹した。そして余った(パンの)屑を拾うと、十二篭あった。
前田訳皆が食べて満腹した。余りのくずを拾うと、十二籠あった。
新共同すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
NIVThey all ate and were satisfied, and the disciples picked up twelve basketfuls of broken pieces that were left over.
註解: 如何にして五つのパンと二つの魚をもって五千人を飽かしめ得たかは、我らの今日の知識をもっては説明し得ない。なお残余を拾い集めることは、神の豊富さに似合わしからぬようであるが、無限の創造力を有ち給う神がその造り給える一物をも軽視し給わない処に、神の神らしさを見るべきである。この奇蹟は最も重要なる奇蹟として他の三福音書にも掲げられている。それらの各々に附随せる要義をも参照すべし。
要義 [弟子の従順さ]イエスの御言を解せず、その為せと命じ給うことの何のためであるかを解しなかった弟子たちでありながら、彼らは従順にイエスの命じ給うままに行動した。この時彼らがイエスより受取ったパンは、彼らの手中において数百倍の量に増加したのであった。かくして彼らはイエスに従うことによって自ら奇蹟を行うことができたのであった。かつ、「食物を彼らに与えよ」との命令をすら実行することができた。この奇蹟の物語において注意べき点である。

5-2-ハ イエスは誰か。受難の予告(その一) 9:18 - 9:22
(マタ16:13-23) (マコ8:27-33)   

註解: 前節と本節との間にマルコ伝6:45−8:27に相当する部分が省かれている。理由は不明である。

9章18節 イエス人々(ひとびと)(はな)れて(いの)居給(ゐたま)ふとき、弟子(でし)たち(とも)にをりしに、()ひて()ひたまふ[引照]

口語訳イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。
塚本訳イエスがひとりで祈っておられた時のこと、弟子たち(だけ)が一しょにいると、こう言って尋ねられた、「人々はわたしのことをなんと言っているのか。」
前田訳彼がひとりで祈っておられたときのこと、弟子たちがおそばにいたのでおたずねになった、「群衆はわたしをなんといっているか」と。
新共同イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
NIVOnce when Jesus was praying in private and his disciples were with him, he asked them, "Who do the crowds say I am?"
註解: 「人々を離れて」は適訳ではない、「一人にて」「単独にて」と訳すべきで、弟子たちも偕にいる中で独り祈り給うたのである。イエスのこの祈りの姿は弟子たちの目に強く印象されたのであった。

群衆(ぐんじゅう)(われ)(たれ)といふか』

9章19節 (こた)へて()ふ『バプテスマのヨハネ、(ある)(ひと)はエリヤ、(ある)(ひと)(いにし)への預言者(よげんしゃ)一人(ひとり)よみがへりたりと()ふ』[引照]

口語訳彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。
塚本訳彼らが答えて言った、「洗礼者ヨハネ。あるいはエリヤ、あるいは昔のある預言者が生き返ったのだ、と言う者があります。」
前田訳彼らが答えた、「洗礼者ヨハネです。あるものはエリヤ、あるものは昔のある預言者がよみがえった、と申します」と。
新共同弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
NIVThey replied, "Some say John the Baptist; others say Elijah; and still others, that one of the prophets of long ago has come back to life."
註解: 8節と同一で当時一般の人々のイエスに対する評言であった。イエスを真に理解しなかった人々でも、人間としては彼に最高の霊的地位を与えることには一致していた。

9章20節 イエス()(たま)ふ『なんぢらは(われ)(たれ)()ふか』ペテロ(こた)へて()ふ『(かみ)のキリストなり』[引照]

口語訳彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。
塚本訳彼らに言われた、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」ペテロが答えて言った、「神の(お約束の)救世主!」
前田訳彼らにいわれた、「あなた方はわたしをなんというか」と。ペテロが答えた、「神のキリスト」と。
新共同イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
NIV"But what about you?" he asked. "Who do you say I am?" Peter answered, "The Christ of God."
註解: ペテロが弟子たちを代表してイエスを人間以上と見「神の受膏者」または「キリスト」(マコ8:29)または「キリスト活ける神の子」と告白した。これはイエスに対する尊敬を超越して彼に対する礼拝にまで高められた心の態度であった。これが人間がキリストに対して取るべき当然の態度である。マタイ伝(16:17−19)によればイエスはいたくこの告白を嘉(よみ)し、ペテロに天国の鍵を授け給うた。マルコ伝、ルカ伝にはこれを省略している。

9章21節 イエス(かれ)らを(いまし)めて、(これ)(たれ)にも()げぬやうに(めい)じ、[引照]

口語訳イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、
塚本訳イエスは弟子たちを戒めて、このことをだれにも言うなと命じられた。
前田訳彼は弟子たちをたしなめてこのことをだれにもいわぬよう命じられた。そして、いわれた、
新共同イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
NIVJesus strictly warned them not to tell this to anyone.
註解: この信仰は神より直接に彼らの霊に示されるものであって、人が人に告ぐべきものではない、またイエスを神のキリストと信ずることは次節以下27節に示されている通り、唯頭脳による理解の問題ではなく生命懸(いのちが)けの問題であるから、無理解の者に濫りに与えてはならない故かく命じ給う。なおこの告白終ってイエスは苦難の途に向って突進し給うたのであった。またイエスがこの告白を拒まなかった処にイエスの神の子意識を見ることができる。▲イエスを神の子と信じ、彼を宣伝えるのがキリスト者の任務である。このことと「これを誰にも告げるな」という主の命令とは矛盾するようであるが、この信仰は聖霊によって父より示されるべきことであり、イエスの復活昇天の後においてこのことが実現すべきものであるので、彼の在世中には濫りにこれを言い広めることを禁じ給うたのであろう。

かつ()(たま)

9章22節 (ひと)()(かなら)(おほ)くの苦難(くるしみ)をうけ、長老(ちゃうらう)祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)らに()てられ、かつ(ころ)され、三日(みっか)めに(よみが)へるべし』[引照]

口語訳「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。
塚本訳そして、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日目に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と言われた。
前田訳「人の子は多くの苦しみを受け、長老、大祭司、学者から捨てられ、殺されて三日目に復活せねばならぬ」と。
新共同次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
NIVAnd he said, "The Son of Man must suffer many things and be rejected by the elders, chief priests and teachers of the law, and he must be killed and on the third day be raised to life."
註解: イエスはここに初めて受難の予告をなし給うた。かかるイエスを神の子として信じなければならないことは最も困難なことであり、かくてもなおイエスを信ずるのでないならば、その信仰は虚偽である。かつ弟子自らもこの苦難を負う覚悟を要する。

5-2-ニ イエスに従う者の覚悟 9:23 - 9:27
(マタ16:24-28) (マコ8:34-9:1)   

9章23節 また一同(いちどう)(もの)()ひたまふ『(ひと)もし(われ)(したが)(きた)らんと(おも)はば、(おのれ)をすて、日々(ひび)おのが十字架(じふじか)()ひて(われ)(したが)へ。[引照]

口語訳それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
塚本訳それから今度は皆に話された、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、毎日自分の十字架を負い、それからわたしに従え。
前田訳そして皆にいわれた、「わたしについて来ようとするものは、おのれを捨てて日ごとおのが十字架を負い、それからわたしに従え。
新共同それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
NIVThen he said to them all: "If anyone would come after me, he must deny himself and take up his cross daily and follow me.
註解: 利益や、パンを求めて我に従うのは誤っている。イエスの弟子となるの第一の覚悟は、日々自己の負うべき苦難を負うことである。

9章24節 (そは)(おの)生命(いのち)(すく)はんと(おも)(もの)(これ)(うしな)ひ、()がために(おの)生命(いのち)(うしな)ふその(ひと)(これ)(すく)[はん](ふべければなり)。[引照]

口語訳自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
塚本訳(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者が、(永遠の)命を救うのだから。
前田訳おのがいのちを救おうとするものはそれを失い、わたしのためにいのちを失うものはそれを救おう。
新共同自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
NIVFor whoever wants to save his life will lose it, but whoever loses his life for me will save it.
註解: 前節の理由、我らの生命はキリストのために献げらるることによって救われて永遠の生命に入り、反対に自己のためにこれを用いんとして永遠の滅亡に入る。この逆説(パラドックス)の真理なることを覚るのが、キリスト教教理の理解の鍵である。

9章25節 (ひと)全世界(ぜんせかい)(まう)くとも、(おのれ)をうしなひ(おのれ)(そん)せば、(なに)(えき)あらんや。[引照]

口語訳人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
塚本訳全世界をもうけても、自分(の命)を失ったり損したりするのでは、その人は何を得するのだろう。
前田訳人が全世界をかち得ても、自らを失いまたは損したら、何の利得があろう。
新共同人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
NIVWhat good is it for a man to gain the whole world, and yet lose or forfeit his very self?
註解: 一人の個人の価値は全世界よりも貴重である。この自己の人格を救いこれを全うすることは全世界をもうけるよりも大切なることである。そしてこの個人を救うにはキリストを信じて彼に従うより外にない(ヨハ12:25)。

9章26節 (われ)()(ことば)とを()づる(もの)をば、(ひと)()もまた、(おのれ)(ちち)(せい)なる御使(みつかひ)たちとの榮光(えいくわう)をもて(きた)らん(とき)()づべし。[引照]

口語訳わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
塚本訳(わたしを信ずると言いながら、)わたしとわたしの福音(を告白すること)とを恥じる者があれば、人の子(わたし)も、自分と父上と聖なる天使たちとの栄光に包まれて(ふたたび地上に)来る時、そんな(臆病)者を(弟子と認めることを)恥じるであろう。
前田訳わたしとわがことばを恥じるものがあれば、その人を人の子は恥じよう、彼が自分と父と聖なる天使たちの栄光のうちに来るときに。
新共同わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
NIVIf anyone is ashamed of me and my words, the Son of Man will be ashamed of him when he comes in his glory and in the glory of the Father and of the holy angels.
註解: イエスとイエスの言とを恥ずる者はイエスを信ずることを拒み、イエスに従うことを恥とする者であり、すなわち不信の徒である。かかる者に対し、イエスが再び来給う時、これを己のものと呼ぶことを恥じて彼を拒むであろう。イエスの再臨の時は父の栄光、己が栄光、御使いたちの栄光をもって輝く。そのイエスに拒まれることは永遠の死、永遠の審判を意味する。

9章27節 われ(まこと)をもて(なんぢ)らに()ぐ、此處(ここ)()(もの)のうちに、(かみ)(くに)()るまで[は]()(あぢ)はぬ(もの)どもあり』[引照]

口語訳よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
塚本訳本当にわたしは言う、(その時はじきに来る。)今ここに立っている者のうちには、死なずにいて、その神の国を見る者がある。」
前田訳本当にいう、ここに立っているものの中には、神の国を見るまで死を味わわぬものがある」と。
新共同確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
NIVI tell you the truth, some who are standing here will not taste death before they see the kingdom of God."
註解: 「神の国を見る」とはイエスの再臨により神の国が実現し完成する時の姿を指す。「死を味ふ」は肉体の死を意味せず、永遠の死を意味すと見るべきである。イエスを信ずる者は「永遠の生命をもちかつ審判に至らず、死より生命に移っている」(ヨハ5:24)。ここに立っている汝ら多くの人々(23節)の中、全部ではないにしてもその或者は、イエスを信ずることによって永遠の生命を持ち、永遠に死を味わずしてやがて再臨のイエスの栄光を見ることができる者があるであろう。イエスはやがて苦難と死を経過しなければならず、弟子はおのが十字架を負うてイエスに従わなければならぬ。しかしイエスのためにかくしてその生命を失う者こそ永遠の栄光と永遠の生命を獲得し、栄光のイエスとその国とを見ることができるのである。苦難を通しての栄光である。なおこの「死」を肉体的死と見る場合、弟子の生存中にキリストの再臨があることとなり、事実相違の結果となるため、「神の国」を「イエスの変貌」(28−36節)または紀元七十年のエルサレムの陥落を指すとする説あれど、上掲解釈を採る。

5-2-ホ イエスの変貌 9:28 - 9:36
(マタ17:1-8) (マコ9:2-8)   

9章28節 これらの(ことば)をいひ(たま)ひしのち八日(やうか)ばかり()ぎて、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを()きつれ、(いの)らんとて(やま)(のぼ)(たま)ふ。[引照]

口語訳これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
塚本訳これらの言葉を語られた後、八日ばかりして、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に上られた。
前田訳これらのことをいわれてから八日ほどして、彼はペテロとヨハネとヤコブを連れて山に上って祈られた。
新共同この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
NIVAbout eight days after Jesus said this, he took Peter, John and James with him and went up onto a mountain to pray.
註解: 八日後の出来事であったが互に密接な関連がある事件であった。ヨハネをヤコブより先に置いたのはヨハネが当時生きており、重要な目撃者であるから(B1)と解するのは適当でない。8:51註参照。この場合もイエスの目的は父なる神に祈り給うことであった。
辞解
[山] この山の位置名称等につき種々の伝説があるが不確かである。現在はタボール山の頂上に、この事実を記念する建物がある。

9章29節 かくて(いの)(たま)ふほどに、御顏(みかほ)(さま)かはり、()(ころも)(しろ)くなりて(かがや)けり。[引照]

口語訳祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
塚本訳祈っておられるうちに、お顔の様子がちがってきて、着物(まで)が白く光り出した。
前田訳祈っておられると、お顔の様子が変わり、お着物が白く輝いた。
新共同祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
NIVAs he was praying, the appearance of his face changed, and his clothes became as bright as a flash of lightning.
註解: ルカは単に「御顔の様相」 eidos が変わったといっているが、マタイ、マルコは「彼らの前にてその状かはり metamorphōthē 」といい、蛹が蛾になったほどの変態 metamorphosis を呈したことを録している。後者の方が実相を良く示していると思われる。白き衣は、祭司・天の使い等の衣に類する点より見るも、この場合のイエスの姿は天的光輝に輝いていた。

9章30節 ()よ、二人(ふたり)(ひと)ありてイエスと(とも)(かた)る。これはモーセとエリヤとにて、[引照]

口語訳すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、
塚本訳すると見よ、二人の人が(現われて、)イエスと話していた。それはモーセとエリヤで、
前田訳すると見よ、ふたりの人が彼と話していた。それはモーセとエリヤで、
新共同見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
NIVTwo men, Moses and Elijah,

9章31節 榮光(えいくわう)のうちに(あらは)れ、イエスのエルサレムにて()げんとする逝去(せいきょ)のことを()ひゐたるなり。[引照]

口語訳栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。
塚本訳栄光に包まれて現われ、イエスがエルサレムで遂げねばならぬ最後について(彼と)語っていたのである。
前田訳栄光のうちに現われ、イエスがエルサレムで遂げねばならぬ最期について話していたのである。
新共同二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
NIVappeared in glorious splendor, talking with Jesus. They spoke about his departure, which he was about to bring to fulfillment at Jerusalem.
註解: 31−33a節はルカ伝のみにあり。ルカが伝聞かまたは異なった記録より取ったのであろう。「逝去」は exodos の訳で、去って往くことすなわち門出または出発を意味す。従ってこの場合、単にイエスの受難の死のみならず、その後の復活、昇天等をも含んでいると見るべきである。モーセは律法の代表者、エリヤは預言の代表者で両者をもって旧約を代表し、新約のイエスが加わって神の人類救済の経綸の全貌を示す。

9章32節 ペテロ(およ)(とも)にをる(もの)いたく睡氣(ねむけ)ざしたれど、()(さま)してイエスの榮光(えいくわう)および(とも)()二人(ふたり)()たり。[引照]

口語訳ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。
塚本訳ペテロたちはぐっすり眠っていたが、(この時)目を覚まして、このイエスの栄光(の姿)と、一しょに立っている二人の人とを見たのである。
前田訳ペテロと仲間は眠り込んでいたが、目を覚まして、彼の栄光と、彼とともに立つふたりの人とを見た。
新共同ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
NIVPeter and his companions were very sleepy, but when they became fully awake, they saw his glory and the two men standing with him.
註解: 「睡気ざす」睡さに耐え難いこと、これは29節の前の状態として考うべきであろう。さもなくばイエスの変貌を見ることができなかったはずである。

9章33節 二人(ふたり)(もの)イエスと(わか)れんとする(とき)、ペテロ、イエスに()ふ『(きみ)よ、(われ)らの此處(ここ)()るは()し、(われ)()つの(いほり)(つく)り、(ひと)つを(なんぢ)のため、(ひと)つをモーセのため、(ひと)つをエリヤの(ため)にせん』(かれ)()(ところ)()らざりき。[引照]

口語訳このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
塚本訳いよいよ二人がイエスと別れようとした時、ペテロがイエスに言った、「先生、わたし達(三人)がここにいるのは、とても良いと思います。だから小屋を三つ造りましょう。一つをあなたに、一つをモーセに、一つをエリヤに。」──何を言っているのか、(自分にも)わからなかった。
前田訳ふたりが彼と別れるとき、ペテロはイエスにいった、「先生、われらがここにいるのをさいわい、幕屋を三つ作りましょう、一つをあなたに、一つをモーセに、一つをエリヤに」と。何をいっているのか、自分にもわからなかったのである。
新共同その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
NIVAs the men were leaving Jesus, Peter said to him, "Master, it is good for us to be here. Let us put up three shelters--one for you, one for Moses and one for Elijah." (He did not know what he was saying.)
註解: ペテロはこの高き山の上にイエス、モーセ、エリヤの三人と共に生活することの幸福を想像して胸の躍るを覚え、かかる状態の永続こそ望ましいことと思ったので、この奇蹟的顕現の性質の如何をも考慮に入れずにこの三人のために廬(いおり)の建設を提言したのであった。
辞解
[言ふ所を知らざりき] 無我夢中で言ったとのこと。
[此處に居るは善し] 「善し」はこんな結構なことはないという意味。道徳的善悪の問題ではない。

9章34節 この(こと)()()るほどに、(くも)おこりて(かれ)らを(おほ)ふ。(くも)(うち)()りしとき、弟子(でし)たち(おそ)れたり。[引照]

口語訳彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。
塚本訳しかしペテロがこう言い終らないうちに、雲がおこって、彼ら(イエスとモーセとエリヤと)を掩った。彼らが雲の中に入った時、弟子たちは恐ろしくなった。
前田訳ペテロがこういううちに雲がおこって彼らをおおった。彼らは雲の中に入ったときおそれた。
新共同ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
NIVWhile he was speaking, a cloud appeared and enveloped them, and they were afraid as they entered the cloud.

9章35節 (くも)より(こゑ)()でて()ふ『これは()(えら)びたる(()が)()なり、(なんぢ)(これ)()け』[引照]

口語訳すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。
塚本訳すると「これはわたしの“選んだ子、”“彼の言うことを聞け”」と言う声が雲の中から聞えてきた。
前田訳すると、雲の中から声がした、「これはわが選びのいとし子。彼に耳傾けよ」と。
新共同すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
NIVA voice came from the cloud, saying, "This is my Son, whom I have chosen; listen to him."
註解: 高い山の頂上に不意に雲が起る光景は唯さえ物すごいものであるが、その雲が白き衣に耀いた三人と弟子たち三人とを包んでしまったので、弟子たちが懼れたのも無理もない。その時雲の中から聞えた声は神の声として、彼らにとって最も意義深いものであった。マタ17:5。マコ9:7には「これは我が愛しむ子なり、汝ら之に聴け」とあり、ルカはこれを「選びたる我が子」と録している。この両者の間に根本的差別はない。なおUペテ1:17、18の差異を見よ。ただしキリストについて「選ばれたる」ことを録しているのはルカだけである(23:35)。

9章36節 (こゑ)()でしとき、(ただ)イエスひとり()(たま)ふ。[引照]

口語訳そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。
塚本訳声がきこえた時、見ると(そこには)イエスだけがおられた。彼らはそのころ口をつぐんで、見たことを一切、だれにも話さなかった。
前田訳声がしたとき、見ると、イエスだけがおられた。彼らは黙りこんで、見たことをそのころ、いっさいだれにも話さなかった。
新共同その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
NIVWhen the voice had spoken, they found that Jesus was alone. The disciples kept this to themselves, and told no one at that time what they had seen.
註解: イエスは「律法と預言者」すなわち旧約の完成者であり成就者である。モーセやエリヤと同列に置くべきではない。このことをペテロも他の二人の弟子も悟ったことであろう。

弟子(でし)たち(もく)して、()(こと)(なに)(ひと)()(ころ)たれにも()げざりき。

註解: ルカ伝のみにこのことが録され、イエスがかく命じ給うたことはマタイ伝とマルコ伝とのみに録されている。ルカはこの命令を省略したか、または事の重大さを弟子たちが感じ、自然暫くの間沈黙したものと解したのであろう。なおルカがこの記事の次にエリヤに関する記事を省略したのは(マタ17:9−13。マコ9:9−13)ユダヤ人以外には関心少なき事実であるからであろう。
要義 [イエスに関する神の証言]イエスがヨハネよりバプテスマを受けて水より上り給える時「これは(または汝は)我が悦ぶ我が愛子なり」との声が天より聞え、この度また、イエスの変貌の山においてほとんど同様の声が天より聞えた。前者はイエスが伝道生涯に入らんとし給う門出の際であり、後者はイエスが十字架の途に進まんとし給う門出の際であった。共にイエスにとっては重大なる危機であり、神の佑けを要すること最も大なる時であった。この時神は天よりその御声をもってイエスを証し、彼に天よりの佑けを与え給うたのであった。これによってイエスは、新たなる確信をもってその進むべき道に進み、弟子たちは不動の信仰をもって彼に依り頼むことができたのであった(Uペテ1:17、18)。

5-2-へ 癲癇の兒を醫し給う 9:37 - 9:43
(マタ17:14-21) (マコ9:14-29)   

9章37節 (つぎ)()(やま)より(くだ)りたるに、(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)イエスを(むか)ふ。[引照]

口語訳翌日、一同が山を降りて来ると、大ぜいの群衆がイエスを出迎えた。
塚本訳次の日、山から下ってくると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
前田訳次の日彼らが山をおりると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
新共同翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
NIVThe next day, when they came down from the mountain, a large crowd met him.

9章38節 ()よ、群衆(ぐんじゅう)のうちの(ある)(ひと)さけびて()ふ『()よ、(ねが)はくは()()(かへり)みたまへ、(これ)()獨子(ひとりご)なり。[引照]

口語訳すると突然、ある人が群衆の中から大声をあげて言った、「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、
塚本訳すると群衆の中のひとりの人がこう言って叫んだ、「先生、お願いです、伜に目をかけてやってください。独り息子です。
前田訳すると見よ、群衆のひとりが叫んだ、「先生、お願いします。倅(せがれ)にお心をおかけください。ひとり息子です。
新共同そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。
NIVA man in the crowd called out, "Teacher, I beg you to look at my son, for he is my only child.

9章39節 ()よ、(れい)()くときは(にはか)(さけ)ぶ、痙攣(ひきつ)けて(あわ)をふかせ、(いた)(そこな)ひ、(やうや)くにして(はな)るるなり。[引照]

口語訳霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです。
塚本訳かわいそうに霊がつくと、急にどなり出し、またひきつけさせて泡をふかせ、なかなか離れないで、すっかり弱らせてしまいます。
前田訳霊がとりつくが早いか急に叫びだし、ひきつけさせて泡をふかせ、なかなか離れないで弱らせます。
新共同悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
NIVA spirit seizes him and he suddenly screams; it throws him into convulsions so that he foams at the mouth. It scarcely ever leaves him and is destroying him.

9章40節 御弟子(みでし)たちに(これ)()(いだ)すことを()ひたれど、(あた)はざりき』[引照]

口語訳それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
塚本訳それで、霊を追い出すことをお弟子たちに願いましたが、お出来になりませんでした。」
前田訳お弟子たちに霊を追い出すようお願いしましたが、おできになりませんでした」と。
新共同この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
NIVI begged your disciples to drive it out, but they could not."
註解: イエスとその三人の弟子が山上におり、下には九人の弟子が群衆の中におり癲癇(てんかん)の子を醫すことができなかったのでその家族はもとより、一般の群衆も切りにイエスの来り給うことを待望していた。その子の親は彼をイエスの許に連れて来て治癒を請うた。独り子であったことが一層その父の心配を大きくしていた。

9章41節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『ああ(しん)なき(まが)れる()なる(かな)、われ何時(いつ)まで(なんぢ)らと(とも)にをりて、(なんぢ)らを(しの)ばん。(なんぢ)()をここに()(きた)れ』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。
塚本訳イエスが答えられた、「ああ不信仰な、腐り果てた時代よ、わたしはいつまであなた達の所にいてあなた達に我慢しなければならないのか。息子をここにつれてきなさい。」
前田訳イエスが答えられた、「ああ不信の曲がった世代よ、いつまであなた方のところにいてあなた方を辛抱すべきか。息子をここに連れて来なさい」と。
新共同イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
NIV"O unbelieving and perverse generation," Jesus replied, "how long shall I stay with you and put up with you? Bring your son here."
註解: イエスはこの時、弟子たち、病兒の父、一般の群衆をも含めてその不信と邪曲を責め給うた。弟子たちが彼を醫し得なかったのは弟子たちのみならず、その父の不信にもよることであったので、マコ9:22b−24にイエスがその父の不信を責め給えることが記されている。ルカ伝は省略している。

9章42節 (すなは)(きた)るとき、惡鬼(あくき)これを()(たふ)し、(いた)痙攣(ひきつ)けさせたり。イエス(けが)れし(れい)(いやし)め、()(いや)して、その(ちち)(わた)したまふ。[引照]

口語訳ところが、その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒して、引きつけさせた。イエスはこの汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった。
塚本訳しかし来るうちに、悪鬼がもうその子を投げ倒して、ひどくひきつけさせた。イエスは汚れた霊を叱りつけて子をいやし、父親に返された。
前田訳来るうちに悪鬼が子を倒してひきつけさせた。イエスはけがれた霊をたしなめて子をいやし、父親に返された。
新共同その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
NIVEven while the boy was coming, the demon threw him to the ground in a convulsion. But Jesus rebuked the evil spirit, healed the boy and gave him back to his father.

9章43節 人々(ひとびと)みな(かみ)稜威(みいつ)(をどろ)きあへり。[引照]

口語訳人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、
塚本訳皆が神の御威光に驚いてしまった。イエスのされたすべてのことに皆が驚いていると、(また)弟子たちに言われた、
前田訳皆が神の偉大さにおどろきいった。皆が彼のなさったことすべてにおどろいていると、彼は弟子たちにいわれた、
新共同人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
NIVAnd they were all amazed at the greatness of God. While everyone was marveling at all that Jesus did, he said to his disciples,
註解: 穢れし霊はイエスを見て反抗的に一層強くその力を発揮したにも関らず、イエスは容易にこれを醫し給うた。弟子たちはこれを見て師の力におどろき群衆もまたイエスの中に耀く神の稜威におどろいた。

5-3 弟子たちを戒め給う 9:43 - 9:50
5-3-イ 受難の予告(その二) 9:43 - 9:45
(マタ17:22-23) (マコ9:31-32)   

人々(ひとびと)みなイエスの()(たま)ひし(すべ)ての(こと)(あや)しめる(とき)、イエス弟子(でし)たちに()(たま)ふ、

註解: 山上においては貌を変えてモーセ及びエリヤと語り、弟子たちをしてその光栄に驚かしめ、山を下っては九人の弟子の誰もが醫し得なかった病兒を醫して群衆をして怪しましめ給うた。かかるイエスに対しては、何人も彼の将来に多くを期待し、イスラエルを異教国の支配より脱せしめ給うのはこの人であろうと考えたであろう。これに対し事実は全くその反対であることをイエスは簡単に弟子たちに告げ給うた。

9章44節 『これらの(ことば)(なんぢ)らの(みみ)にをさめよ。(ひと)()人々(ひとびと)()(わた)さるべし』[引照]

口語訳「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。
塚本訳「あなた達はこの言葉をよく耳にしまって置きなさい。──人の子(わたし)は人々の手に引き渡されねばならない。」
前田訳「あなた方はこのことばを耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に渡されよう」と。
新共同「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
NIV"Listen carefully to what I am about to tell you: The Son of Man is going to be betrayed into the hands of men."
註解: これは第二回目の受難の予告である。マコ9:31によれば「殺されて三日ののちに甦へるべき」ことをも示し給うた。かかる事は変貌の山のイエス、病兒を醫し給えるイエスにとっては何人にも想像だになし得ないことであった。

9章45節 かれら()(ことば)(さと)らず、(わきま)へぬやうに(かく)されたるなり。また()(ことば)につきて()ふことを(おそ)れたり。[引照]

口語訳しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。
塚本訳しかし彼らはこの言葉がわからなかった。彼らに(意味が)隠されていたので、会得できなかったのである。でもこわいので、この言葉について尋ねなかった。
前田訳しかし彼らはこのことがわからなかった。彼らに隠されていたので、理解できなかったのである。そしてこわかったので、そのことについておたずねしなかった。
新共同弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
NIVBut they did not understand what this meant. It was hidden from them, so that they did not grasp it, and they were afraid to ask him about it.
註解: 人間の理解力弁別力は、その霊的能力の程度によって異なる。イエスの語り給える御言を文字の上より見れば何人も理解し得る事柄であるが、それが弟子たちの心に明瞭な感じを与えなかった。解ったようで解っていなかった。後に信仰が確立するようになって以前には想像だに為し得なかったような明瞭さをもってこの言が彼らに響いて来た。その時までは、その真理が隠されていたのである。またイエスの態度があまりにも真剣であったので譬喩による説教の場合とは異なり、その意味を問うことを懼れた。
辞解
[辨へる] aisthanomai 実感を得ること。
要義 [悟るに時あり]聖書は幸いにして仏教の経典のごとくに文字そのものとして難解なものは多くはない。それにもかかわらず聖書の示そうとしている多くの真理は、これを理解したつもりでいてもその真の意味を理解せずにおる場合は非常に多い。例えば「あがない」のこと、「再臨」のこと等は、聖書の中に数多く録されている重要な真理であるにもかかわらず、それが明らかに我らの霊に啓示されるまでは「辨へぬやうに隱され」ている故これを悟ることができない。言の上では明らかにされておりながら、その意味が隠されており、心に実感が伴わない。しかし時至ってその言が我らの霊に啓示される時、以前には思いも及ばなかった明瞭さをもってその意味を理解し、心に強い実感を得るに至るのである。これ神の言は我らの理知の世界の外にあるからである。

5-3-ロ 野心を戒む 9:46 - 9:48
(マタ18:1-5) (マコ9:33-37)   

9章46節 ここに弟子(でし)たちの(うち)に、(たれ)(おほい)ならんとの爭論(さうろん)おこりたれば、[引照]

口語訳弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。
塚本訳ここに弟子たちの心に、自分たちのうちでだれが一番えらいだろうという考えが起った。
前田訳弟子たちの間に、自分たちのだれが一番偉いか、という考えがおこった。
新共同弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
NIVAn argument started among the disciples as to which of them would be the greatest.
註解: 精神的職務に就いている者は、殊に虚栄心や名誉心が強い。弟子たちは地方伝道に派遣されて帰って来たばかりなので各々の成績の良否等も自然に比較するような心になった。マタイ伝と異なりルカ伝はこれを現世における大小の意味と見るべきであろう。
辞解
[おこる] eiserchomai 「入り来る」なる原語を用う。弟子たちの間にこれまで見得なかったサタン的心情と、それにより生ずる争論とが入って来たことを示す。

9章47節 イエスその(こころ)爭論(さうろん)()りて、幼兒(をさなご)をとり御側(みそば)()きて()(たま)ふ、[引照]

口語訳イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、
塚本訳イエスは彼らの心の考えを知って、一人の子供の手を取り、自分のわきに立たせて、
前田訳イエスは彼らの心の考えを悟って、幼子の手を取って自らのそばに立たせて
新共同イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
NIVJesus, knowing their thoughts, took a little child and had him stand beside him.

9章48節 『おほよそ()()のために()幼兒(をさなご)()くる(もの)は、(われ)()くるなり。(われ)()くる(もの)は、(われ)(つかは)しし(もの)()くるなり。[引照]

口語訳「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。
塚本訳言われた、「わたしの名を信ずるこの子供を迎える者は、わたしを迎えてくれるのである。わたしを迎える者は、わたしを遣わされた方をお迎えするのである。あなた達の間ではだれよりも一番小さい者が、一番えらい。」
前田訳いわれた、「わが名のゆえにこの幼子を迎えるものはわたしを迎える。わたしを迎えるものはわたしをつかわされた方をお迎えする。あなた方の間では一番小さいものが一番偉い」と。
新共同言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
NIVThen he said to them, "Whoever welcomes this little child in my name welcomes me; and whoever welcomes me welcomes the one who sent me. For he who is least among you all--he is the greatest."
註解: 弟子たちが「誰か大ならん」と言って争った「大さ」「偉大さ」の内容は、弟子たちの考えでは、偉大な事業を成就し、偉大な信仰の持主となることであったろう。かくして信仰的に世人の賞賛の的となり、事業的に世人を驚かし得る者が偉大なものと考えたのであろう。これに対しイエスは一人の幼兒のごとく世人の注意を引かず社会的価値を認められないような人(例えば貧民・病人・無位無官無学の人等がそれである)をイエスの名によってすなわち信仰によって受け、これを愛しこれを助けることがすなわちイエスを信ずることであり、これがまた神を信ずることであり、偉大な事業、偉大な信仰とはかかるものであることを示し給うた。こうしてまた同時に、幼兒のごとき人間は無価値に見えるけれども神の目には大きい価値があることを示し給うた。神の目に偉大なるものは人の目に小さく、人の目に小さい者は神の目に大である。

(なんぢ)らの(うち)にて(もっと)(ちひさ)(もの)は、これ(おほい)なるなり』

註解: それ故に人間的に見て最も小さき者であることは決して無価値であることを意味せず、またかかる者こそかえって神の目に最も大なるものであり、反対に自ら大なる者と自負しているものはかえって神の目には小さき者である。▲天国における大小は地上における大小とは正反対である。これが一般に理解される時地上には空なる争闘は消え去り平和が漲(みなぎ)る。
要義 [人に仕うる心]自らを高くせんとして他人をして自己に奉仕せしめるのが、昔からの独裁者、封建諸侯らの態度であり、その正反対がイエスの態度(マタ20:25−28)であり、従って凡てのキリスト者の態度でなければならない。自らを高しとする者は世の卑(ひく)き者と交わることを恥辱と考え、自らを卑(ひく)しとする者は世の卑(ひく)きもの、病者、弱者、愚者に仕えることを自分の天職と考える。かかる者のみ神より大なるものと認められる。

5-3-ハ 党派心を戒む 9:49 - 9:50
(マコ9:38-40)   

9章49節 ヨハネ(こた)へて()ふ『(きみ)よ、御名(みな)によりて惡鬼(あくき)()ひいだす(もの)()しが、我等(われら)とともに(したが)はぬ(ゆゑ)に、(これ)(とど)めたり』[引照]

口語訳するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。
塚本訳ヨハネが言った、「先生、あなたの名を使って悪鬼を追い出している者を見たので、止めるように言いました。わたし達と一しょに(あなたに)従わないからです。(しかし言うことを聞きませんでした。)」
前田訳ヨハネがいった、「先生、あなたのみ名で悪鬼を追い出しているものを見ましたが、われらに従いませんので、やめさせました」と。
新共同そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
NIV"Master," said John, "we saw a man driving out demons in your name and we tried to stop him, because he is not one of us."

9章50節 イエス()(たま)ふ『()むな。(なんぢ)らに(さから)はぬ(もの)は、(なんぢ)らに()(もの)なり』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。
塚本訳イエスはヨハネに言われた、「止めさせるには及ばない。反対しない者はあなた達の味方である。」
前田訳イエスは彼にいわれた、「やめさせるな。あなた方に反対せぬものはあなた方の味方である」と。
新共同イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
NIV"Do not stop him," Jesus said, "for whoever is not against you is for you."
註解: おそらくヨハネがその兄ヤコブと共に伝道旅行に出かけていた時の経験であろう。イエスの御名によって悪鬼を逐いだしておりながらヨハネらと共にイエスの弟子となってイエスに従うことをしない故に、イエスの名において悪鬼を逐い出すことを止めたのであった。宗教家に往々にして見る狭い宗派心、徒党心の現れである。ヨハネはこれを「幼兒をうくる」心の反対ではないかと思い付き、イエスに質問したのであろう。イエスはこれに対し、ヨハネらの態度を非とし、積極的に反対するものでないならば、たといイエスの弟子団の一員とならないものでも、それは味方であると考うべきであることを教え給うた。徒党心・宗派心は、今日も同様に、強い人間の本能である。加うるに自己を神の位置に置いて他を審(さば)くことは為すべきではない。
辞解
「逆らふ」kata 「附く」huper で、「敵する」「味方する」意味である。ロマ8:31も同様。
要義 [宗派心の本質](1)自家自派の思想や組織を正しとすると同時にこれと異なるものを誤っていると考えること、(2)自己と同一の徒党に属しないものはたとい同一の信仰を有っていてもこれを異端視することの二つが宗派心の本質である。第一の点は自己を神の地位に置いて他を審(さば)くことから生ずる誤謬であり、第二の点はキリストに属していることをもって足れりとせず、自己の徒党に加わることを必要と考える誤謬である。強い自信と熱心とは結構であるが、それが宗派心となって堕落する場合、往々かえって大なる害を為すものである。それは自己をキリスト以上の地位に置くからである。

分類
6 エルサレムに向って進み始め給う 9:51 - 12:48
6-1 内外の困難 9:51 - 9:62
6-1-イ サマリヤ人イエスを拒否す 9:51 - 9:56  

註解: 9:51より18:30まで(学者によっては18:14まで、または19:27までとする説もあり)は、全くマルコ伝から分離してルカ独特の記述を主体とする部分であり、ルカの特種の資料によったものと思われる。その中にはイエスの教訓を多く含んでおり、甚だ貴重なるもの、独特なるものが多い。マルコやマタイにはこれに類せるものなく、むしろヨハネ伝の思想に近いものが多い。この部分の資料が何であったかは明かではなく、またこの部分は、事件の順を逐(お)うて記されたものではなく、思想の連絡を主として併列されたものと見るべきであろう(L2)。学者はこの部分を「ルカによる旅行記」と称している。

9章51節 イエス[(てん)に]()げらるる(とき)滿()ちんとしたれば、御顏(みかほ)(かた)くエルサレムに()けて(すす)まんとし、[引照]

口語訳さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、
塚本訳イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、
前田訳昇天の日が迫ったので、彼は顔を毅然とエルサレムへ向けて進み、
新共同イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
NIVAs the time approached for him to be taken up to heaven, Jesus resolutely set out for Jerusalem.
註解: 9:5、22等に預言し給えること、すなわちイエスは迫害による死のために地上の生活を棄てて天上の生活に移り給うべき日々が到来した。そこでイエスは死の覚悟を定め、物凄き決意をもって、真直にエルサレムに御顔を向けて進み給うた。ルカの叙述の生き生きとしていることに注意すべし。信仰に生くるものの態度はかくあるべきである。
辞解
[天に擧げらるる時] 「天に」は原文になし、ただし昇天を意味することは勿論である。唯これは天に挙げらるる一時的事実を指すのでなく、地上の生活より天上の生活に移り給うことを意味していると見るべきである(L2、Z0)。
[時] 「日々」で複数、すなわち昇天以前の彼の全生涯は終りに到達した。イエスはもはやその十字架の死の近いことを感じ給うた。

9章52節 (おのれ)(さき)だちて使(つかひ)(つかは)したまふ。[引照]

口語訳自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、
塚本訳(まず行くさきざきに)使を先発させられた。ところが、彼らが行ってイエスのために宿の用意をしようとしてサマリヤ人の村に入ると、
前田訳使いたちを先発させられた。彼らが行って宿の用意にとサマリア人の村に入ると、
新共同そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
NIVAnd he sent messengers on ahead, who went into a Samaritan village to get things ready for him;
註解: この使いは54節のヨハネとヤコブの外他の人々も加わったであろう。予め派遣するのは、一行の宿舎その他の準備のためであった。

(かれ)()きてイエスの(ため)(そなへ)をなさんとて、サマリヤ(ひと)(ある)(むら)()りしに、

註解: ガリラヤよりエルサレムに直行するにはサマリヤが最も近い順路である。サマリヤ人はユダヤ人に対して強い反感を有っていたけれども(ヨハ4:9註参照)、イエスは少しもそれに心を留め給わずに彼らの中に宿ることの準備を為さしめ給うた。弟子たちもその師の感化の下に虚心淡懐にサマリヤ人の或村に入って行った。

9章53節 (むら)(ひと)そのエルサレムに(むか)ひて()(たま)ふさまなるが(ゆゑ)に、イエスを()けず、[引照]

口語訳村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。
塚本訳村人たちはイエスが顔をエルサレムへ向けて進んでおられるので、承知しなかった。
前田訳人々は彼を受け入れなかった。顔をエルサレムへ向けて進んでおられたからである。
新共同しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
NIVbut the people there did not welcome him, because he was heading for Jerusalem.
註解: 直訳「村人彼を受けず、そは彼の御顔はエルサレムに向って進みつつありたればなり」。イエスの態度が真直にエルサレムに向っていることを知り、イエスをユダヤ人を愛する者と見、サマリヤ人の感情は嫉妬と反感とに満されたのであった。なおこの理由につき種々の解釈があるが採らない。宗教上の反感が如何に執拗で不合理であるかは、今日も変わらない。

9章54節 弟子(でし)のヤコブ、ヨハネ、これを()()ふ『(しゅ)よ、(われ)らが(てん)より()()(くだ)して(かれ)らを(ほろび)すことを(ほっ)(たま)ふか』[引照]

口語訳弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。
塚本訳弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て(憤慨して)言った、「主よ、(エリヤのように)“天から火を”呼び“下して、”あの奴らを“焼き殺してしまい”ましょうか。」
前田訳弟子のヤコブとヨハネがそれを見ていった、「主よ、天から火を呼びおろして彼らを焼き殺しましょうか」と。
新共同弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
NIVWhen the disciples James and John saw this, they asked, "Lord, do you want us to call fire down from heaven to destroy them ?"
註解: 異本に「エリヤが為したるごとくに」とあり、必ずしも必要の句にあらず、U列1:9−12参照。エリヤはアハジア王がエクロンの神バアルアルゼブブに使いを遣わそうとしたのを叱責して、五十人の使者とその長の上に二回とも天より火を降して彼らを焼殺した。ヨハネは雷の子と称えられるほど、激情家であったので、サマリヤ人の態度に憤激し、天の火をもってこれを焼き殺そうとした、そしてイエスの意向を伺った。

9章55節 イエス(かへり)みて(かれ)らを(いまし)め、[引照]

口語訳イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。
塚本訳イエスは振り返って二人を叱り、
前田訳彼は振り返ってふたりをたしなめられた。
新共同イエスは振り向いて二人を戒められた。
NIVBut Jesus turned and rebuked them,
註解: 異本に「イエス顧みて彼らを戒めて言ひ給ふ。汝らは如何なる霊に属するかを知らず(ざるか)。人の子は人の生命を亡ぼさんとにあらで之を救はんとて来れり」とあり、これを採用する学者も多い。イエスの霊とエリヤの霊とは異なっていた。旧約においては神の審判が高調され、審判の神の霊が働いており、エリヤはこれによってアハジヤ王の使いを焼殺した。新約において罪の赦しと人類の救いとが中心でありイエスの霊は救いの霊であって、弟子たちはこの霊に属する者であった。従ってエリヤのごとくに行動すべきではない。

9章56節 (つい)(あひ)(とも)(ほか)(むら)()きたまふ。[引照]

口語訳そして一同はほかの村へ行った。
塚本訳みなとほかの村へ行かれた。
前田訳そして一行は別の村へと進んだ。
新共同そして、一行は別の村に行った。
NIVand they went to another village.
要義1 [異なる霊に対する態度]イエスすら彼を受けないサマリヤ人に対してかかる寛容を示し給うた。カルヴィンがセルヴェートに対して示した不寛容の態度は明らかにこのイエスの教訓に違反している。ただしイエスは異なる霊に対して妥協的な態度を取り給うたのではなく、またかく教え給うたのでもなかった。彼の弟子を受けない邑がある場合、その足の塵を払ってそこを出づべきことを教え給うた(9:5)。この度の場合も彼は弟子たちと共に他の村に往き、その不一致の態度を明らかにし給うたことに注意すべきである。
要義2 [イエスを迎えよ]イエスが我らの心の中に宿らんとして、我らの心の戸を叩き給う時、我ら直ちに彼を迎え入れずとも我らは直ちに天よりの罰を受けるとは限らない。それ故に我らは往々にして彼の訪れに心付かず、時にはこれを拒否し彼を迎え入れない場合が多い。かかる場合は、彼は我を見捨てて他の人の心の戸を叩き給う。而して彼を迎うることは永遠の祝福であり、彼を拒むことは永遠の滅亡である。

6-1-ロ イエスに従うことの困難 9:57 - 9:62  

9章57節 (みち)()くとき、(ある)(ひと)イエスに()ふ『何處(いづこ)()(たま)ふとも(われ)(したが)はん』[引照]

口語訳道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。
塚本訳彼らが道を進んでいると、ある人がイエスに言った、「どこへでもおいでになる所はお供をします。」
前田訳彼らが道行くとき、ある人がイエスにいった、「どこでもおいでのところへお伴します」と。
新共同一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
NIVAs they were walking along the road, a man said to him, "I will follow you wherever you go."
註解: 57−62節においてイエスは彼に従わんとする三人の弟子に対し、イエスの弟子たるべき者の持つべき覚悟を教え給う。この中第一第二はマタ8:19−22にあり第三はルカの特有である。第一の人は自らイエスに従わんことを申出でた。しかもイエスが行き給う処は水の中でも火の中でも従おうとする熱心と勇気とを示した。熱狂型の弟子であった。

9章58節 イエス()ひたまふ『(きつね)(あな)あり、(そら)(とり)(ねぐら)あり、されど(ひと)()(まくら)する(ところ)なし』[引照]

口語訳イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
塚本訳イエスはその人に言われた、「狐には穴がある、空の鳥には巣がある。しかし人の子(わたし)には枕する所がない。(その覚悟があるか。)」
前田訳イエスはいわれた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところがない」と。
新共同イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
NIVJesus replied, "Foxes have holes and birds of the air have nests, but the Son of Man has no place to lay his head."
註解: 軽々しく熱狂する者はまた忽(たちま)ちにして冷め易い。かかる者の熱狂を煽ることは、彼をしてついにその熱狂の奴隷となって滅亡せしめるだけであることをイエスは知り、まず彼に冷水三斗を浴せ給うた。すなわちサマリヤで経験し給えるごとくに、人の子はこの世に拒否せられ、安らかに眠りを取る場所すら与えられない。イエスの弟子となろうとする者は勿論彼とその運命を倶(とも)にする覚悟を要する、イエスの弟子となることは大なる苦難をその身にうけることを覚悟しなければならない。
辞解
「狐」も「空の鳥」も聖書では多くの場合悪しき者を意味する(ルカ13:32。8:5。エゼ13:4。39:4)。イエスはここでもかかる意味をこれらの語の中に風刺し、イエスとの対照となし給うたのとも見ることができよう。

9章59節 また(ある)(ひと)()ひたまふ『(われ)(したが)へ』かれ()ふ『まづ()きて()(ちち)(はうむ)ることを(ゆる)(たま)へ』[引照]

口語訳またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。
塚本訳またほかの一人に言われた、「わたしについて来なさい。」その人が言った、「その前に、父の葬式をしに行かせてください。」
前田訳またほかの人にいわれた、「わたしに従いなさい」と。その人がいった、「まず父を葬りに行かせてください」と。
新共同そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
NIVHe said to another man, "Follow me." But the man replied, "Lord, first let me go and bury my father."
註解: 第二の者は第一の者と反対に自ら進んでイエスに従うことをせず、容易に決心がつき兼ねている種類の人であったろう。かかる者に対しイエスは「我に従へ」と呼びかけ彼の決心を促し、彼の弱さに力を添え給うた(マタイ伝とはややこれと異なる)。これに対し彼には凡てを捨ててイエスに従おうとする強い熱情は起らなかった。従ってその決心を実行に移す前に何らかの口実を設けてその実行を遅延しようとした。父を葬るためという最も有力な口実を設けたならば、イエスもこれを許し給うであろうと考えたからである。

9章60節 イエス()ひたまふ『()にたる(もの)に、その()にたる(もの)(はうむ)らせ、(なんぢ)()きて(かみ)(くに)()(ひろ)めよ』[引照]

口語訳彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。
塚本訳その人に言われた、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい。」
前田訳その人にいわれた、「死人に自分らの死人を葬らせ、あなたは行って神の国をのべ伝えなさい」と。
新共同イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
NIVJesus said to him, "Let the dead bury their own dead, but you go and proclaim the kingdom of God."
註解: イエスに従うには徹底的に全心全霊をもって従うことを第一の主要なる事柄と考えなければならぬ。この世の凡ての要請よりも上にこれを置かなければならぬ。イエスは父の埋葬を理由としてイエスに従うことを少しでも遅延しようとする弟子の心そのものに、イエスの弟子に相応しからざる要素を発見し給うた。それ故イエスは、彼を許さず、肉的死人の処理は、霊的死人すなわち神を信ぜざる者に任せて置けば充分であり、霊的に新生せる弟子は、さらに重要な緊急の使命があることを教え給うた。この使命は神の国を宣伝えることである。

9章61節 また(ある)(ひと)いふ『(しゅ)よ、(われ)なんぢに(したが)はん、されど()(いへ)(もの)(わかれ)()ぐることを(ゆる)(たま)へ』[引照]

口語訳またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
塚本訳もう一人のほかの人も言った、「主よ、お供します。ただその前に、家の者に暇乞いをさせてください。」
前田訳もうひとりもいった、「主よ、お伴します。ただ、まず家のものに別れを告げさせてください」と。
新共同また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
NIVStill another said, "I will follow you, Lord; but first let me go back and say good-by to my family."

9章62節 イエス()ひたまふ『()(すき)につけてのち(のち)(かへり)みる(もの)は、(かみ)(くに)(かな)(もの)にあらず』[引照]

口語訳イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。
塚本訳しかしイエスは言われた、「鋤に手をかけたあとで後を見る者は、神の国の役に立たない。」
前田訳イエスはいわれた、「鋤に手をかけてからうしろを見るものは神の国にふさわない」と。
新共同イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
NIVJesus replied, "No one who puts his hand to the plow and looks back is fit for service in the kingdom of God."
註解: 第三の者はイエスに従おうという熱心もあるが、同時にこの世の愛慾を全く断ち切り兼ね、この世のことにも恋々(れんれん)としている種類の人であった。神と財宝とに兼ね仕えようとするのはこの種の人である。かかる者に対しイエスは、一旦福音の伝道に従事しようとした以上は決して後を顧みてはならない。真直にその使命に突進べえきことを教え給うた。
要義 [イエスに従う者の覚悟]イエスに従う者は第一に非常なる困難をイエスと共に味わうことを覚悟しなければならない。第二に喜んで直ちに彼に従わなければならない。口実を設けて彼に従うことを避けてはならない。第三に徹底的でなければならぬ。二心をもって彼に従わんとする者は、結局彼を離れて世の奴隷となるに過ぎない。ここで「イエスに従う」とはその弟子となって伝道に従事することの意味であるが、単に信仰に入る場合についても、これらの事情はそのまま適応する。

ルカ伝第10章
6-2 弟子たちの派遣 10:1 - 10:24
6-2-イ 七十人の派遣 10:1 - 10:12
(マタ10:7-16)   

10章1節 この(こと)ののち、(しゅ)、ほかに(しち)(じふ)(にん)をあげて、(みづか)()かんとする町々(まちまち)處々(ところどころ)へ、おのれに(さき)だち二人(ふたり)づつを(つかは)さんとして()(たま)ふ、[引照]

口語訳その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。
塚本訳そのあとで、主は(十二人のほかに)別に七十二人を定め、自分で行こうとしておられる、あらゆる町や場所に二人ずつ先発された。
前田訳そののち主は別の七十〔二〕人を定め、自ら行こうとされるすべての町や里へふたりずつ先発させられた。
新共同その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
NIVAfter this the Lord appointed seventy-two others and sent them two by two ahead of him to every town and place where he was about to go.
註解: 神の国の福音を広めるためには働き人の数は如何に多くとも多過ぎることはない。主は十二弟子の外にさらに七十人を選び給うた。
辞解
[ほかに] 「ほかの」で十二弟子(6:13−16)以外の意味。
[あげ] anadeiknumi は公けに任命し布告する形式。
[七十人] 完全数七を人間的完全数十をもって倍したるものならん。ある異本に七十二人とあり、何れを正しとすべきかは決定し難い。七十人とすればモーセがエホバの命によって選んだ長老の数に因んだものと思われ(民11:16)、七十二人とすれば十二使徒の数を六倍した数となる。
[二人] 証人(あかしびと)の数であり、やがてイエス自ら行かんとし給う処にその草分けとして遣わし給うた。

10章2節 收穫(かりいれ)はおほく、勞働人(はたらきびと)(すくな)し。この(ゆゑ)收穫(かりいれ)(しゅ)に、勞働人(はたらきびと)をその收穫場(かりいれば)(つかは)(たま)はんことを(もと)めよ。[引照]

口語訳そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。
塚本訳彼らに言われた、「刈入れは多いが、働き手が少ない。だから刈入れの主人に、刈入れのため(多くの)働き手を送られるよう、お願いしなさい。
前田訳彼らにいわれた、「刈入れは多く、働き手は少ない。それゆえ、刈入れの主に刈入れのため働き手を送られるようお願いしなさい。
新共同そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
NIVHe told them, "The harvest is plentiful, but the workers are few. Ask the Lord of the harvest, therefore, to send out workers into his harvest field.
註解: 七十人でもなお足らず、彼らをしてさらに神に祈らしめ、さらに多くの労働人を求めしめ給うた。福音は全世界をその収穫場としなければならぬ。この一節はマタイ伝では十二使徒選任の前に語り給うたものとして記されている(マタ9:37、38)。▲収穫場(かりいれば)therismos は口語訳のごとく「収穫」(かりいれ)の意味。従って「収穫場に遣す」は「収穫に送り込む」と訳すべきである。
辞解
[遣し] ekballō 「放り出す」こと。

10章3節 ()け、()よ、(われ)なんぢらを(つかは)すは、羔羊(こひつじ)豺狼(おほかみ)のなかに()るるが(ごと)し。[引照]

口語訳さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。
塚本訳行け、いまわたしがあなた達を送り出すのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。
前田訳行っていらっしゃい。こうしてあなた方をつかわすのは羊を狼の中に入れるようだ。
新共同行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
NIVGo! I am sending you out like lambs among wolves.
註解: (マタ10:16参照)遣される弟子たちは、常に豺狼(おおかみ)の襲撃に遭うことを覚悟しなければならない。キリストの弟子たちは常に柔和であり、この世の子らは常に狂暴である。マタ10:16では「この故に蛇のごとく慧く、鳩のごとく素直なれ」との注意を与えている。狼の中に遣される羊にとっては必要な注意である。

10章4節 財布(さいふ)(ふくろ)(くつ)(たづさ)ふな。[引照]

口語訳財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。
塚本訳(だからただ信仰で武装せよ。)財布も旅行袋も持ってゆかず、靴もはくな。だれにも道で挨拶をするな。
前田訳財布も袋も持たず、靴もはくな。道でだれにもあいさつするな。
新共同財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
NIVDo not take a purse or bag or sandals; and do not greet anyone on the road.
註解: (マタ10:9、10a)何れも旅行に必要欠くべからざる用具であるが、主の福音を伝える者はこれを携える必要が無い。何となれば主は彼らを守り、福音を伝えられる者を通して彼らの必要を充し給うからである。もし絶対に主を信頼するならば一物をも携えずに伝道の生涯に発足することができる。神の召命を信じて伝道の生涯に突入する者もこれと同じ。ただし今日これを文字通りに実行することを要する訳ではなくこの精神を実現すべきであること勿論である。

また(みち)にて(たれ)にも挨拶(あいさつ)すな。

註解: 東洋の風習として挨拶は形式的で多くの無用の時間を費やしまた真実性を害する。イエスはかかる無意味の形式と時間の空費とは、伝統のために全力と全時間とをささげ尽くすべき者にとって不相応であり不必要であることを教え給うたのである。一般的に礼儀を無視すべきことを教えたのではない。

10章5節 (いづれ)(いへ)()るとも、()平安(へいあん)この(いへ)にあれと()へ。[引照]

口語訳どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。
塚本訳ある家に入ったら、まっ先に『平安この家にあれ』と言いなさい。
前田訳ある家に入ったら、まず、『平安この家に』といいなさい。
新共同どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
NIV"When you enter a house, first say, `Peace to this house.'
註解: 「平安あれ」シャーロームは今日に至るもなおユダヤ人の間の挨拶の語であって、語の意義を考えずに用いられているけれども、イエスはこの形式に生命を吹き込み、神を信じキリストを受けることにより与えらるる平安あらんことを祈る意味で用いられていることに注意すべし(マタ10:12)。その家に対して愛の心をもって接すべきことを教えたのであった。

10章6節 もし平安(へいあん)()そこに()らば、(なんぢ)らの[(しゅく)する]平安(へいあん)はその(うへ)(とどま)らん。[引照]

口語訳もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。
塚本訳もしそこに一人でも平安を愛する者がおれば、あなた達の(祈った)平安はその人に止り、もし一人もいなければ、あなた達に返ってくる(、そしてあなた達のものとなる)であろう。
前田訳もしそこに平安の人がいれば、あなた方の平安はその人にとどまろう。もしいなければ、それはあなた方にかえろう。
新共同平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
NIVIf a man of peace is there, your peace will rest on him; if not, it will return to you.
註解: 「平安の子」平安に値する子、神に在る平安を持てる者または持たんとする者の意。一人でもかかる子がその家にあるならば、弟子たちが「平安あれ」と挨拶したその平安が、その家の上に腰を落ちつけて永く滞留するであろう。すなわちその挨拶そのものすら、効果を発生して伝道の使命が果されるであろう。
辞解
[汝らの祝する平安] 直訳「汝らの平安」で弟子たちの心の中の平安とも解し得るけれども、むしろ弟子たちが「平安〔あれ〕」といった平安すなわち挨拶として言った言葉がそのまま事実となったとの意味であろう。
[その上] 文法上「子」とも「家」とも解し得るけれども、前節の挨拶から考えて「家」と見る方が適当である。B1はこれを双方にかけている。
[上に留まる] epanapauō あるものの上に留まること。
[平安の子] 「怒の子」(エペ2:3)「亡の子」(ヨハ17:12)「光の子」(マタ16:8)「ゲヘナの子」(マタ23:15)等を参考すべし。

もし(しか)らずば、[()平安(へいあん)は](なんぢ)らに(かへ)らん。

註解: もしその家に一人の平和の子もいなかったとしても、その挨拶は無益に空費されたのではなく、再び自分に帰って来るであろう。それ故その挨拶が無効であったからとて怒ることも悲しむことも宜しくない。平安が汝らに帰り来り、汝らの心を平安ならしめるであろう。

10章7節 その(いへ)にとどまりて、(あた)ふる(もの)(くら)()みせよ。勞働人(はたらきびと)のその(あたひ)()るは相應(ふさは)しきなり。[引照]

口語訳それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。
塚本訳(どんな家でも一度入ったら、その土地を立ってゆくまでは)同じ家に泊まっていて、家の人が出すものを(遠慮なく)飲み食いせよ。働く者が報酬をいただくのは当然だから。家から家へと移ってはならない。
前田訳同じ家に泊まって、そこの人々の出すものを飲み食いせよ。働き手に報酬は当然である。家から家へと移るな。
新共同その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
NIVStay in that house, eating and drinking whatever they give you, for the worker deserves his wages. Do not move around from house to house.
註解: (マタ10:11参照)伝道者の生活は神まかせでなければならぬ。従って彼を迎うる者の処には満足して留まるべく、また彼よりその食物を受ける権利がある。それはその労働に対する正当の報酬である。
辞解
[その家] 原語では強意的で、「その家そのもの」というごとき意。
[與ふる物] 「彼らよりのもの」または「彼らに属するもの」の意であり、何れにしても主人の供えてくれるものの意味で、邦訳の通りにて可し。本節後半直訳は「労働人はその報酬に値すればなり」。

(いへ)より(いへ)(うつ)るな。

註解: (マタ10:11)対人信頼の態度を取るべきであり、かつ宿所に関して不満や不足を持つべきではない。宿所を移動することは種々の弊害を引起すことも有り得るからである。

10章8節 (いづれ)(まち)()るとも、人々(ひとびと)なんぢらを()けなば、(なんぢ)らの(まへ)(そな)ふる(もの)(しょく)し、[引照]

口語訳どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。
塚本訳ある町に入ったとき、人があなた達を歓迎するなら、出されるものを食べて、
前田訳ある町に入って、人々があなた方を歓迎するなら、出されるものを食べよ。
新共同どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
NIV"When you enter a town and are welcomed, eat what is set before you.

10章9節 其處(そこ)にをる(やまひ)のものを(いや)し、また「(かみ)(くに)(なんぢ)らに(ちか)づけり」と()へ。[引照]

口語訳そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
塚本訳その町の病人をなおし、また(町の)人々に、『あなた達には神の国(の喜び)が近づいた』と言え。
前田訳そしてその町の病人をいやし、『あなた方に神の国は近づいた』といいなさい。
新共同その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
NIVHeal the sick who are there and tell them, `The kingdom of God is near you.'
註解: 8−15節は町村がイエスの福音使を受けるか如何かに関して取るべき態度を教えている。「汝らの前に供えらるる物を食すべし」との注意は7節の反復ではなく、ユダヤ人と異邦人との混合している町では、ユダヤ人から見て潔からざる食物が供えらるる場合もあるので、それらを問題にしないで食せよとの意味であろう(Z0、マコ7:18、19)。「病を醫す」力は弟子たちにも与えられた。「神の国は汝らに近付けり」はイエスの伝道の第一声であり、またその要約であった。イエスの心の中に完全なる神の国(神の支配)が成立っており、このイエスに連なる者に神の国は広まって行った。それ故イエスの使徒を受くる者には神の国は已(すで)に近付いていたのである。なおマタ10:7参照。

10章10節 (いづれ)(まち)()るとも、人々(ひとびと)なんじらを()けずば、大路(おほじ)()でて、[引照]

口語訳しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、
塚本訳しかしある町に入ったとき、人が歓迎しないなら、大通りに出て言え、
前田訳ある町に入って、人々があなた方を歓迎しないなら、大通りに出ていいなさい、
新共同しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
NIVBut when you enter a town and are not welcomed, go into its streets and say,

10章11節 (われ)らの(あし)につきたる(なんぢ)らの(まち)(ちり)をも、(なんぢ)らに(たい)して(はら)()つ、されど(かみ)(くに)(ちか)づけるを()れ」と()へ。[引照]

口語訳『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。
塚本訳『わたし達は足についたこの町の埃まで、あなた達に拭いてかえす。(縁を切った証拠だ。)しかし(あなた達には、恐ろしい裁きである)神の国が近づいたことを知れ』と。
前田訳『われらは足についたこの町のちりまであなた方に拭いて返す。しかし知れ、神の国が近づいたことを』と。
新共同『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
NIV`Even the dust of your town that sticks to our feet we wipe off against you. Yet be sure of this: The kingdom of God is near.'
註解: 8、9節の場合と反対にイエスの弟子を受けない場合の態度を教えている(マタ10:14)。イエスを拒む村ではその塵をもその足より払い除ける程、その町とは全く無関係であり、全く異なった存在であることを公示すべしとのことである。イエスを受くる者とこれを拒む者との間には天と地、救いと亡び、光と闇との差異がある。「されど」以下は、9節と同じことを彼らにも知らせなければならないことをイエスは教え給う。すなわち拒絶の態度をもって彼らを反省せしめ、神の国の近づけるを示して彼らを滅亡より救わんとし給う愛心の顕れである。従って足の塵を払うことは侮辱の心持からする嘲弄の態度ではなく、本質的差異を明かにするための証しの態度である。▲「足の塵を払ふ」ことの意味については9:2の註参照。

10章12節 われ(なんぢ)らに()ぐ、かの()にはソドムの(かた)その(まち)よりも()(やす)からん。[引照]

口語訳あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。
塚本訳わたしは言う、かの日には、(あの堕落町)ソドムの方が、まだその町よりも罰が軽いであろう。
前田訳わたしはいう、かの日には、ソドムのほうがその町よりは耐えやすかろう。
新共同言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
NIVI tell you, it will be more bearable on that day for Sodom than for that town.
註解: 「かの日」は最後の審判の日、「ソドム」は創18:16−19:29に記されてある死海附近の低地で、その住民の罪のために火で亡ぼされた町。イエスを拒む罪は最大の罪であるから、審判によって受くる苦痛もまたソドム以上であることは当然である。

6-2-ロ 不信の都市 10:13 - 10:16
(マタ11:21-23)   

10章13節 禍害(わざはひ)なる(かな)、コラジンよ、禍害(わざはひ)なる(かな)、ベツサイダよ、(なんぢ)らの(うち)にて(おこな)ひたる能力(ちから)ある(わざ)を、ツロとシドンとにて(おこな)ひしならば、(かれ)らは(はや)荒布(あらぬの)をき、(はひ)のなかに()して、悔改(くいあらた)めしならん。[引照]

口語訳わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。
塚本訳ああ禍だ、お前コラジン!ああ禍だ、お前ベツサイダ!わたしがお前たちの所で行っただけの奇跡をツロやシドンで行ったなら、(あの堕落町でも、)とうの昔に粗布を着、灰の中に坐って悔改めたにちがいないのだから。
前田訳呪われている、コラジンよ。呪われている、ベツサイダよ。あなた方のところで行なわれた奇跡がツロやシドンで行なわれたら、彼らはとうの昔に灰の中にすわって悔い改めたろう。
新共同「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
NIV"Woe to you, Korazin! Woe to you, Bethsaida! For if the miracles that were performed in you had been performed in Tyre and Sidon, they would have repented long ago, sitting in sackcloth and ashes.

10章14節 されば審判(さばき)には、ツロとシドンとのかた(なんぢ)()よりも()(やす)からん。[引照]

口語訳しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
塚本訳ところで、裁きの時には、ツロやシドンの方が、まだお前たちよりも罰が軽いであろう。
前田訳しかし裁きの日にはツロやシドンのほうがあなた方よりは耐えやすかろう。
新共同しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
NIVBut it will be more bearable for Tyre and Sidon at the judgment than for you.
註解: (マタ11:21−23)イエスは弟子たちに対して町々の不信仰に際して取るべき態度を示し給える後、イエスを拒めるガリラヤの諸邑コラジン、ベテサイダ、カペナウム等のことを想起し、それらの上に「ウーアイ」(禍害なるかな)の叫びを注ぎ給うた。これによって弟子たちを受けない町の運命をも暗示し、弟子たちを力付けるためでもあったろう。これらはカペナウムに近接する諸邑で、イエスを受けなかった。ツロ、シドンはパレスチナの北方地中海に沿える異邦の港であり、腐敗の標本とされる地方であった。最も堕落していると思われるツロ、シドンすらもしイエスの奇蹟を見たならば、忽(たちま)ちにして根本的に悔改めたであろうに、ユダヤ人の町ともいうべきこれらの町がイエスの能力ある奇蹟を見つつもなお悔改めないのは何たる頑迷な態度であろうか。これらの上にはツロ、シドン以上の重き審判が下るであろう。▲「荒布をき、灰のなかに坐す」についてはマタ11:22辞解参照。

10章15節 ( (また)(なんじ))カペナウムよ、(なんぢ)(てん)にまで()げらるべきか、黄泉(よみ)にまで(くだ)らん。[引照]

口語訳ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。
塚本訳それから、お前カペナウム、(わたしに特別に可愛がられたからとて、)まさか“天にまで挙げられる”などとは思っていないだろうね。(天に挙げられるどころか、)“お前は黄泉にまでたたき落されるであろう。”
前田訳さておまえカペナウム、天にまで挙げられようか。否(いな)、黄泉(よみ)にまで落とされよう。
新共同また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
NIVAnd you, Capernaum, will you be lifted up to the skies? No, you will go down to the depths.
註解: イエスのガリラヤ伝道の本拠であったカペナウムは天まで挙げらるべき光栄に与り得る町であったのに、イエスを受けなかった。その結果この町は審(さば)かれて黄泉に下るであろう。13−15節はマタ11:21−23に他の機会に語られたことになっている。以上1−15節までの各節はそれぞれの節に引用せるマタイ伝の記事とは語句の順序と語られた場合とを異にしているだけで内容は略一致している。十二弟子の派遣も七十人の派遣も実質的に差異があるはずがない故、イエスがこれら二つの場合に略同様のことを語り給うたと見ても差支えない。

10章16節 (なんぢ)()()(もの)(われ)()くなり、(なんぢ)らを()つる(もの)(われ)()つるなり。(われ)()つる(もの)(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)()つるなり』[引照]

口語訳あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。
塚本訳(七十二人の者に言っておく。──)あなた達の言うことを聞く者は、わたしの言うことを聞くのであり、あなた達を排斥する者は、わたしを排斥するのである。わたしを排斥する者は、わたしを遣わされた方を排斥するのである。」
前田訳あなた方に耳傾けるものはわたしに耳傾け、あなた方を拒むものはわたしを拒む。そしてわたしを拒むものはわたしをつかわされた方を拒む」と。
新共同あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
NIV"He who listens to you listens to me; he who rejects you rejects me; but he who rejects me rejects him who sent me."
註解: マタ10:40−42に一層詳細に記されている通り、イエスの弟子を拒みこれを放逐する者は、イエスに対しまた神に対して同じ罪を犯すこととなるのであって重大なる罪であることを示す。弟子たちはこのことを聞いて彼らの責任の重いことを知ると共に、また彼らを拒否する市邑の運命の重大さを思い真実の心をもってその伝道を始めたことであろう。弟子に対する態度がそのままイエスおよび神に対する責任を生ずる理由は、一つは神がイエスを遣し、イエスが弟子を遣したのであるから遣されし者は遣した者の代表者であることと、今一つはイエスも弟子もみな神の霊を受けて神との一つ生命に生きている故生命の一部分に対する行動は、そのまま全生命に対する行動であるからである。
要義1 [伝道者の生活問題]10:4、7、8等においてイエスがその七十人の弟子に示し給うた生活法は、凡ての伝道者の生活法の基本的原理であり、根本的精神である。すなわち伝道者はその衣食住の問題については少しも思い煩うことなく、何らの準備も計画も不要であり、凡てを神に任せて前進すべしとのことである。然る時は神はそれぞれの場合において適当の人を動かし、彼をして伝道者に衣食を提供し、住居を備えしめ給うであろうというのである。伝道者の生活は神の直轄であり、常に奇蹟が行われる。
要義2 [伝道の態度]伝道者は全心全霊をもってその使命に突進し、途上で挨拶のために時を空費する遑(いとま)すら無いほど心の緊張をもたなければならぬ。未知の人、未知の家に対しても臆せず福音を伝うべきである。そしてその福音を受くるかこれを拒むかによって相手方の上に臨むべき運命については、明確にこれを示すべきである。そして同時に愛をもって病める者を醫し、悩む者をなぐさめなければならぬ。而して何よりも重要なことは「神の国の到来」を知らせることである。
要義3 [福音を受けざる者]真の伝道者を受けざる者はイエスを受けざる者、イエスを受けざる者は神を受けざる者である。しかして神を受けざる者のやがて審(さば)かるべきことは当然のことである故、一伝道者を受けないことは決して小事ではない。かかる者の上に永遠の神の詛いと審判とが臨むことを知らなければならぬ。

6-2-ハ 七十人の帰還 10:17 - 10:20  

10章17節 (しち)(じふ)(にん)よろこび(かへ)りて()ふ『(しゅ)よ、(なんぢ)()によりて惡鬼(あくき)すら(われ)らに(ふく)す』[引照]

口語訳七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。
塚本訳七十二人が喜んで帰ってきてイエスに言った、「主よ、あなたの名を使うと、悪鬼までがわたし達に服従します。」
前田訳七十〔二〕人がよろこび帰っていった、「主よ、あなたのみ名によって、悪鬼もわれらに従います」と。
新共同七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
NIVThe seventy-two returned with joy and said, "Lord, even the demons submit to us in your name."
註解: 悪鬼に憑かれた者に対し、イエスの名を呼んで病人から出ることを命ずれば、悪鬼はその命令に服従して、その病人は醫された。かかる事実が多く起ったことを弟子たちは帰って来てから喜びをもってイエスに報告した。イエスが悪鬼を制する権を彼らに与え給うことは特に記されていないが、これはイエスの弟子となった者には当然に与えられていたものと見るべきである。

10章18節 イエス(かれ)らに()(たま)ふ『われ(てん)より[(ひらめ)く]電光(いなづま)のごとくサタンの()ちしを()たり。[引照]

口語訳彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。
塚本訳彼らに言われた、「悪魔が稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ていた。
前田訳彼らにいわれた、「悪魔(サタン)がいなずまのように天から落ちるのが見えていた。
新共同イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
NIVHe replied, "I saw Satan fall like lightning from heaven.
註解: イエスは弟子たちの喜びに幾分制御を加えよう(Z0)としていると見るべきである。すなわちそれは当然のことで驚くに足りないことであり、また格別喜ぶほどのことではない。その故は弟子たちの勇躍伝道に出発し、イエスの名を呼んで悪鬼を逐い出しつつあった際に、その弟子たちの霊の力に恐れを為してサタンが敗北して天から落ちた姿を霊の眼をもって見給うたからである。凡ての弟子の力強いはたらきによって、悪鬼の王たるサタンすら天に止まってその権を振い得なくなったのであるから、サタンの子分たる悪鬼の逐い出されることは当然である。
辞解
サタンの堕落を、荒野の試誘の時とか(Z0)、キリスト受肉の時とか、またはサタンが罪のために天より落ちた[時]等の説あれど不適当なり。

10章19節 ()よ、われ(なんぢ)らに(へび)(さそり)()み、(あた)(すべ)ての(ちから)(おさ)ふる權威(けんゐ)(さづ)けたれば、(なんぢ)らを(そこな)ふもの()えてなからん。[引照]

口語訳わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。
塚本訳(悪魔の下働きをする)“蛇”や蝎“を踏みつけ、”また敵のあらゆる力に打ち勝つ全権をあなた達に授けたではないか。だから、あなた達に害を加えるものは一つもない。
前田訳このとおり、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝つ権威をあなた方に与えた。何ものもあなた方をそこなうまい。
新共同蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
NIVI have given you authority to trample on snakes and scorpions and to overcome all the power of the enemy; nothing will harm you.
註解: すでにサタンがその位より落ちたのであり、またイエスはその霊の力を弟子たちに与えて彼らをして毒蛇や蠍またその他のあらゆる敵の襲撃から彼らを護る権威を賜ったのであるから、今後の伝道旅行においても何ら心配すべきことがない。悪鬼が逐い出されることのごときは勿論これを当然のことと考えて差支えがない。かく言いて弟子たちを一層力付け給うた。「毒蛇」「蠍」等は具体的にも抽象的にも取ることができる。「蠍」は単数でサタンを指すと見るべし。

10章20節 されど(れい)(なんぢ)らに(ふく)するを(よろこ)ぶな、(なんぢ)らの()(てん)(しる)されたるを(よろこ)べ』[引照]

口語訳しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
塚本訳しかし(悪い)霊どもがあなた達に服従したことを喜ばず、自分の名が天(の命の書)に書き込まれていることを喜ばなくてはいけない。」
前田訳しかし諸霊があなた方に従うことをよろこばず、自分の名が天にしるされていることをよろこびなさい」と。
新共同しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
NIVHowever, do not rejoice that the spirits submit to you, but rejoice that your names are written in heaven."
註解: イエスによって能力を与えられている以上諸霊が弟子たちに服するのは当然である。別に喜ぶほどのことはない。しかし天における生命の書に、汝ら弟子たちの名はすでに記されているのである。これは永遠に亡びざる生命の保証である。汝らが我に従うことの結果がかかる永遠の生命に入るのであるから、それこそ「汝らの喜びでなければならぬ」とイエスは言い給う。弟子に選ばれた伝道の生涯を送る者は、多くの苦難の中を通らなければならないけれども、永遠の国において生命の書にその名が記されていることを思うならば、彼らの凡ての苦難は報いられて余りあるであろう。弟子たちが非常に勢いをもって伝道を始めた時、すでに完全なる勝利が約束されていた。▲神がその独り子を世に遣し給うた時、サタンの支配権は失われたのであった。ゆえに悪鬼がイエスの弟子たちに服することは当然の事実でそれほど喜ぶに当らない。弟子たちは已(すで)にサタンに勝つ権威を与えられてその名は天において生命の書(黙21:27)に録されているのである。
要義 [伝道者のよろこび]伝道者はその伝道が成功する時には非常に嬉しい心持に満されるものである。しかしこの喜びは往々にして誇りを伴うのみならず、やがて来るべき失意の時代があることをも覚悟しなければならない。成功に有頂天になるものは必ず不成功に失望落胆する。それ故イエスは彼らの喜びを掣肘(せいちゅう)し給うた。唯彼らの持つべきものは、彼らが如何なる危険からも困難からも免れる能力を持ち、かつ必ず勝利を得るという確信である。それはサタンがすでに天より落ちたのであるから、勝利は弟子たちのものであり、かつイエスは凡ての敵に打勝つ力を彼らに与え給うたからである。そして伝道者の喜びはその成功ではなく、たとい如何に不成功であっても彼らの名が生命の書に記されており、永遠に生きることができることがその喜びでなければならぬ。伝道者の生涯はそれが真実なものである限り、如何に不成功であっても勝利の生涯であり、生命の書に記された不死の生涯である。

6-2-ニ イエスの歓呼 10:21 - 10:24
(マタ11:25-27、13:16-17)   

10章21節 その(とき)イエス(せい)(れい)により(よろこ)びて()ひたまふ『(てん)()(しゅ)なる(ちち)よ、われ感謝(かんしゃ)す、(これ)()のことを(かしこ)きもの(さと)(もの)(かく)して、嬰兒(みどりご)(あらは)したまへり。(ちち)よ、(しか)り、()のごときは御意(みこころ)(かな)へるなり。[引照]

口語訳そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
塚本訳この時イエスは聖霊にみたされ、感激にあふれて言われた、「天地の主なるお父様、(神の国の秘密に関する)これらのことを(この世の)賢い人、知恵者に隠して、幼児(のような人たち)にあらわされたことを、讃美いたします。ほんとうに、お父様、そうなるのがあなたの御心でした。
前田訳そのとき彼は聖霊に満ちてよろこび、こういわれた、「讃美します、天地の主にいます父上、これらのことを賢人知者に隠して幼子にあらわされましたことを。そうです、父上、それはみ心にかなうことでした。
新共同そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
NIVAt that time Jesus, full of joy through the Holy Spirit, said, "I praise you, Father, Lord of heaven and earth, because you have hidden these things from the wise and learned, and revealed them to little children. Yes, Father, for this was your good pleasure.
註解: 21−23節はマタ11:25−27と殆んど同一なり。ただし連絡は異なる。ルカ伝の方が思想の連絡としてはなだらかである。「聖霊により」てと殊に説明しているのは、イエスにとっては当然のことのようであるが、このイエスの歓びは完全に人間的歓びではないことを強調するためであろう。イエスは「父」に感謝讃美をささげているのであるが、殊に「天地の主なる父」と呼んだのは、この歓喜の内容が特定の部分的問題ではなく、全宇宙的問題であるからである。「此等のこと」はサタンの敗北、神の子ら勝利、その永遠の栄光に関する17−20節の記事と見るべきである。これらの真理は哲理に「智きもの」や、思慮あって「慧きもの」でもこれを知ることができず、神はこれを彼らに「隠し」給うた。然るにその反対に七十人の弟子たちのごとくに無智無学な凡人である「嬰兒」のごときものに神はこれを啓示し給うた。これは偶然ではなく、これがかえって神の御旨に適ったことである。何となれば神は人間的知識によって知らるべきものではなく、信仰の謙遜に対して神より掲示されて知り得るのが正しい道であるからである。神の真理は如何なる大学者でも大政治家でもこれを知ることができないにも関らず、幼兒のごとくに彼を信ずる者には、神は凡てのことを啓示し給う。Tコリ1:21もこれと同様の意味である。
辞解
[その時] 強い表顕を用いている。「その瞬間に」という意味。
[われ感謝す] 「われ汝を讃む」。
[智(かしこ)きもの] sophoi 知識的学問的に智きもの。
[慧(さと)き者] sunetoi 思慮あり理解ある慧きもの。
[顕す] apokaluptō 黙示す、啓示す。学者智者には神は隠されていることに注意すべし。

10章22節 (すべ)ての(もの)(われ)わが(ちち)より(ゆだ)ねられたり。()(たれ)なるを()(もの)は、(ちち)(ほか)になく、(ちち)(たれ)なるを()(もの)は、()また()(ほっ)するままに(あらは)すところの(もの)(ほか)になし』[引照]

口語訳すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。
塚本訳(──知恵も力も、その他)一切のものが父上からわたしに任せられた。父上のほかに、子(であるわたし)が何であるかを知る者は一人もなく、また、子と、子が父上をあらわしてやる者とのほかに、父上が何であるかを知る者はない。」
前田訳すべては父からわたしにまかされている。父のほか子を知るものはなく、子と、子が父をあらわしてあげるものとのほか父を知るものはない」と。
新共同すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
NIV"All things have been committed to me by my Father. No one knows who the Son is except the Father, and no one knows who the Father is except the Son and those to whom the Son chooses to reveal him."
註解: 父はイエスの誰なるかを知り給う。神の御子だからである。同様に子たるイエスは父を知る。而して子たるイエスはその欲するままに弟子たちに父を啓示し給うが故に、弟子たちもまた父の誰なるかを知ることができる。ゆえに弟子はまたイエスの神の子たることを知ることができるのである。かくして父と子と信者たる弟子との間には完全なる理解と一致とが成り立つのである。

10章23節 かくて弟子(でし)たちを(かへり)(ひそか)()(たま)[引照]

口語訳それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。
塚本訳それから特に弟子の方へ振り向いて言われた、「あなた達が(いま)見ているものを見る目は幸いである。
前田訳それから弟子たちのほうをむいて、そっといわれた、「さいわいなのはあなた方が見ているものを見る目。
新共同それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
NIVThen he turned to his disciples and said privately, "Blessed are the eyes that see what you see.
註解: 23、24節はマタ13:16、17にあり異なった場合に言われたものとなっている。弟子たちを顧み給うたところを見れば他にも群衆がいたことが判明(わか)る。「窃(ひそか)に」 kat’ idian は「個人的に」の意味で「秘密に」の意味ではない。弟子たちにのみ語るべき性質の事柄であったからである。

『なんぢらの()(ところ)()()幸福(さいはひ)なり。

10章24節 われ(なんぢ)らに()ぐ、(おほ)くの預言者(よげんしゃ)も、(わう)も、(なんぢ)らの()るところを()んと(ほっ)したれど()ず、(なんぢ)らの()(ところ)()かんと(ほっ)したれど()かざりき』[引照]

口語訳あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。
塚本訳わたしは言う、多くの預言者と王とは、あなた達が(いま)見ているものを見たいと思ったが見られず、あなた達が(いま)聞いているものを聞きたいと思ったが、聞かれなかったのである。」
前田訳わたしはいう、多くの預言者と王とはあなた方が見ているものを見たいと思っても見えず、あなた方が聞いているものを聞きたいと思っても聞けなかった」と。
新共同言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
NIVFor I tell you that many prophets and kings wanted to see what you see but did not see it, and to hear what you hear but did not hear it."
註解: 弟子たちがイエスを見ることができ、イエスの声を聞くことができたことは人類歴史において経験し得る最大の幸福であった。神の子、メシヤ、救い主を見たいとの念願はイスラエルの歴史を一貫した大きい希願であり、預言者はこのメシヤに憧れ、王たちはその救いを求めていた。然るに彼らにはその機会が与えられずして、嬰兒のごとき弟子たちに与えられたのである。彼らは歴史上の最大の幸福者であった。しかし、見て見えず、聞きて聞えない群衆はこの幸福に与ることができず、反対に我ら肉の目をもってイエスを見得ない者でも霊の目で彼を見、霊の耳で彼を聞き得る者は、弟子たちに劣らず幸福者である。

6-3 弟子たるものの生活 10:25 - 11:53
6-3-イ 主要の誡律 10:25 - 10:28
(マタ22:34-40) (マコ12:28-31)  

10章25節 ()よ、(ある)教法師(けうほふし)()ちてイエスを(こころ)みて()ふ『()よ、われ永遠(とこしへ)生命(いのち)()ぐためには(なに)をなすべきか』[引照]

口語訳するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
塚本訳するとそこに、ひとりの律法学者があらわれて、イエスを試そうとして言った、「先生、何をすれば永遠の命がいただけるのでしょうか。」
前田訳そこにひとりの律法学者が現われ、彼を試みようとしていった、「先生、永遠(とこしえ)のいのちを継ぐには何をすべきでしょうか」と。
新共同すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
NIVOn one occasion an expert in the law stood up to test Jesus. "Teacher," he asked, "what must I do to inherit eternal life?"
註解: 25−28節はマタ22:34−40。マコ12:28−31と極めて類似しているけれども、語られし場合が異なり、また質問の内容が異なっている。これを全く別の場合の別の出来事と解する学者(Z0)もあるけれども、同一事件の異なった伝説または編輯と見るべきである(L2、M0、B1)。試みは誘惑する意味ではなく試験するごとき意味である。イエスがその弟子たちの永遠の生命を保証し給い(20節)、またイエスを見ることをもって最大の幸福とする点、またイエスおよび弟子たちは、学者やパリサイ人らが極力重んずる律法を、軽んずるとの風評も有ったので、多分イエスの律法に関する観念に誤謬と弱点とがあるならんと考え、この質問を発した。彼は「教法師」で律法に詳しかったからである。彼は他のユダヤ人らと同様、永遠の生命もその行為(「何をなして」)の種類如何によって得られるものと考えたのである。

10章26節 イエス()ひたまふ『律法(おきて)(なに)(しる)したるか、(なんぢ)いかに()むか』[引照]

口語訳彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
塚本訳イエスは言われた、「律法[聖書]に何と書いてあるか。解釈はいかに。」
前田訳彼はいわれた、「律法に何と書いてあるか。あなたの読み方はどうか」と。
新共同イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
NIV"What is written in the Law?" he replied. "How do you read it?"
註解: マタイ伝マルコ伝は律法の中孰(いず)れが第一かとイエスに向って質問した形になっているが、ルカ伝ではイエスが教法師に反問した形になっている。イエスは教法師の質問の態度を見て快からず思い、答うることをしないで反対質問を発したのであった。

10章27節 (こた)へて()ふ『なんぢ(こころ)(つく)精神(せいしん)(つく)し、(ちから)(つく)し、(おもひ)(つく)して、(しゅ)たる(なんぢ)(かみ)(あい)すべし。また(おのれ)のごとく(なんぢ)(となり)(あい)すべし』[引照]

口語訳彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
塚本訳学者が答えた、「“心のかぎり、精神のかぎり、力のかぎり、”思いのかぎり、“あなたの神なる主を愛せよ。”また”隣の人を自分のように愛せよ”です。」
前田訳彼は答えた、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ、また、隣びとを自分のように愛せよ』とあります」と。
新共同彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
NIVHe answered: "`Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your strength and with all your mind' ; and, `Love your neighbor as yourself.' "
註解: 前半は申命記6:5であり後半はレビ記19:18よりの引用であり、孰(いず)れも全律法の中心的なるものであり、イエスの意見とも一致していた。ユダヤ人は毎朝夕申命記6:5と11:13以下とを繰返す習慣があった。ただしレビ記19:18はかかる習慣が無かったので、如何にして教法師がイエスの心に叶うこの句を引用したかは問題となるのであるが、モーセの十誡も神に対する部分と人に対する部分とがある以上この二つの部分の要約をこの二句に見出したものと考えることは差支えない。

10章28節 イエス()(たま)ふ『なんぢの(こたへ)(ただ)し。(これ)(おこな)へ、さらば()くべし』[引照]

口語訳彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
塚本訳彼に言われた、「その答は正しい。“それを実行しなさい。そうすれば(永遠に)生きられる。”」
前田訳彼にいわれた、「あなたの答えは正しい。それを実行なさい。そうすれば生きえよう」と。
新共同イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
NIV"You have answered correctly," Jesus replied. "Do this and you will live."
註解: 25節の質問の答をここに見ることができる。「何をなす=行ふべきか」に対して「之を行へ」をもって答え、「永遠の生命」に対して「生くべし」をもって答え給うた。すなわち律法は唯学者や教法師のごとくこれを知るだけでは無意味であり、これを行うことが必要であるとの意味である。天国に入る者はイエスの教えを行う者であるとの思想はイエスが常に教え給うた処であった(6:46。マタ7:21。25:11、12)。行わなければならないとの心が起る時、その不可能と自己の無力を知り、心砕かれて神に依り頼み、永遠の生命に入ることができるようになる。▲「之を行へ」はパウロの「律法の行為によって人は義とせられない」との言に反するようであるがそうではない。この行為は律法を律法として行うことではなく真に神を愛する心(申命記6:5)から出る行為であり、そしてこの愛は神の子イエスの贖いに由って罪が赦されたことを信じ神の愛に依り頼む心から生ずるのである。

6-3-ロ 善きサマリヤ人の比喩 10:29 - 10:37  

10章29節 (かれ)おのれを()とせんとしてイエスに()ふ『わが(となり)とは(たれ)なるか』[引照]

口語訳すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
塚本訳すると学者は照れかくしにイエスに言った、「では、わたしの隣り人とはいったいだれのことですか。」
前田訳彼は自らを守るためにイエスにいった、「では、わが隣びとはだれですか」と。
新共同しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
NIVBut he wanted to justify himself, so he asked Jesus, "And who is my neighbor?"
註解: この教法師が自分はこれを行っていると答え得なかった訳は「隣」の意義如何が彼にも問題となり得るからであった。もしこれがユダヤ人のみの意味であるとするかまたはさらに自分の近親や近接せる処に住み居る人の意味に限り得るとすれば、自分を義とし得ると考えたのであろう。これに対してイエスは直接に答え給わず、寓話をもって答え給うた。

10章30節 イエス(こた)へて()ひたまふ『(ある)(ひと)エルサレムよりエリコに(くだ)るとき強盜(がうたう)にあひしが、強盜(がうたう)どもその(ころも)()ぎ、(きず)()はせ、半死半生(はんしはんしゃう)にして()()りぬ。[引照]

口語訳イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
塚本訳イエスが答えて言われた、「ある人が(──それはユダヤ人であった──)エルサレムからエリコに下るとき、強盗に襲われた。強盗どもは例によって(着物を)はぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
前田訳イエスはそれを受けていわれた、「ある人がエルサレムからエリコへ下って行くとき、強盗にやられた。彼らははぎとり、なぐり、半殺しにして逃げた。
新共同イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
NIVIn reply Jesus said: "A man was going down from Jerusalem to Jericho, when he fell into the hands of robbers. They stripped him of his clothes, beat him and went away, leaving him half dead.
註解: エリコは死海に近く、ヘロデ王家の別荘地であり、収税署もあり相当の都市であった。エルサレムよりペレアを経てガリラヤに往く途に当っており、またサマリヤにも途が通じていた。エルサレムよりエリコまでは山間の谷間を縫うて道路が通じており、従って強盗の出没に適していた。この物語は実話ではなくイエスの作り給うた寓話であろう。

10章31節 (ある)祭司(さいし)たまたま()(みち)より(くだ)り、(これ)()てかなたを()()けり。[引照]

口語訳するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
塚本訳たまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ながら、向こう側を通っていった。
前田訳たまたまある祭司がその道を下ってきたが、その人を見ながら、向こう側を通って行った。
新共同ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
NIVA priest happened to be going down the same road, and when he saw the man, he passed by on the other side.

10章32節 (また)レビ(ひと)此處(ここ)にきたり、(これ)()(おな)じく彼方(かなた)()()けり[引照]

口語訳同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
塚本訳同じくレビ人もその場所に来たが、見ながら向こう側を通っていった。
前田訳同じようにレビ人もそのところに来たが、見ながら向こう側を通って行った。
新共同同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
NIVSo too, a Levite, when he came to the place and saw him, passed by on the other side.
註解: 祭司とレビ人はユダヤ人の中心的種族であり、神に仕うる人々である。彼らは常に聖書を読み神殿に奉仕し形の上からは最も神に近い人々であった。従ってその同族が半死半生で苦しんでいるのを見たならば何を措いてもこれを助くべきであった。然るにこの二人ともこの悩んでいる者に一指も触れず、あたかも汚らわしいものに対するごとくに、道路の反対の側を通って行ってしまった。宗教が形式となり学問となった場合の無力と無意義とは、イエスが常に憤慨して止まなかった処であった。「我憐憫を好みて祭を好まず」をしばしば繰返し給うたのもこのためである。この寓話の中心問題からいえばサマリヤ人に対立するものとして必ずしも祭司やレビ人たることを必要とせずユダヤ人であればよいのであるが、イエスは祭司とレビ人とを登場せしめることによって一層その対立を明確化し給うた。

10章33節 (しか)るに(ある)るサマリヤ(ひと)[引照]

口語訳ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
塚本訳ところが旅行をしていたひとりのサマリヤ人は、この人のところに来ると、見て不憫に思い、
前田訳しかし旅するあるサマリア人はその人のところに来ると、見てあわれに思い、
新共同ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
NIVBut a Samaritan, as he traveled, came where the man was; and when he saw him, he took pity on him.
註解: サマリヤ人とユダヤ人との間の反感と対立とについてはヨハネ伝4:9註参照。

(たび)して()(もと)にきたり、(これ)()(あはれ)み、

10章34節 近寄(ちかよ)りて(あぶら)葡萄酒(ぶだうしゅ)とを(そそ)ぎ、(きず)(つつ)みて(おの)(けもの)にのせ、旅舍(はたごや)()れゆきて介抱(かいはう)し、[引照]

口語訳近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
塚本訳近寄って傷にオリブ油と葡萄酒を注いで包帯した上、自分の驢馬に乗せて旅籠屋につれていって介抱した。
前田訳近よって傷にオリブ油とぶどう酒を注いで包帯し、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って手当てした。
新共同近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
NIVHe went to him and bandaged his wounds, pouring on oil and wine. Then he put the man on his own donkey, took him to an inn and took care of him.

10章35節 あくる()デナリ(ふた)つを()し、主人(あるじ)(あた)へて「この(ひと)介抱(かいはう)せよ。(つひえ)もし()さば、()(かへ)りくる(とき)(つくの)はん」と()へり。[引照]

口語訳翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
塚本訳そればかりか、次の日、デナリ銀貨[五百円]を二つ出して旅篭の主人に渡し、『この方を介抱してくれ。費用がかさんだら、わたしが帰りに払うから』と言った(という話)。
前田訳そしてあくる日宿屋の主人に二デナリ渡していった。『この人に手当てをしてください。もっと金がかかったら、わたしが帰りに払いましょう』と。
新共同そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
NIVThe next day he took out two silver coins and gave them to the innkeeper. `Look after him,' he said, `and when I return, I will reimburse you for any extra expense you may have.'
註解: 肉親も及ばざる親切をもってせる行き届いた介抱である。ユダヤ人には軽蔑され排斥されながら、苦しむユダヤ人にかかる憐憫をもって接したのである。敵をも愛する愛が無くしてはできない業である。
辞解
「油」と「葡萄酒」は旅行の際も携帯するほどこの地方には豊富であった。何れも食料であるが医療にも主として用いられた。今日の医学上から見ても適切な手当てである。
[デナリ] 一デナリは当時の労働者の一日の労銀に相当した金額である。負傷者を自分の畜(おそらく驢馬)に乗せて自分が徒歩することなどは一通りの親切ではできないことであり、宿屋の主人にまで介抱を依頼せる行届いた態度はこのサマリヤ人の深い愛を示すに充分である。

10章36節 (なんぢ)いかに(おも)ふか、()三人(さんにん)のうち、(いづれ)強盜(がうたう)にあひし(もの)(となり)となりしぞ』[引照]

口語訳この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
塚本訳(それで尋ねるが、)この三人のうち、だれが強盗にあった人の隣の人であったとあなたは考えるか。(同国人の祭司か、レビ人か、それとも異教のサマリヤ人か。)」
前田訳この三人のうち、だれが強盗にあった人の隣びとであったとあなたは思うか」と。
新共同さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
NIV"Which of these three do you think was a neighbor to the man who fell into the hands of robbers?"

10章37節 かれ()ふ『その(ひと)憐憫(あはれみ)(ほどこ)したる(もの)なり』[引照]

口語訳彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
塚本訳学者はこたえた、「その人に親切をした(サマリヤの)人です。」イエスが言われた、「行って、あなたも同じようにしなさい。(そうすれば永遠の命をいただくことが出来る。)」
前田訳彼はいった、「その人に親切にした人です」と。イエスはいわれた、「行って、あなたも同じようになさい」と。
新共同律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
NIVThe expert in the law replied, "The one who had mercy on him." Jesus told him, "Go and do likewise."
註解: 教法師の問い(29節)は「隣人とは誰か」というのであったが、イエスはこれに正面から答え給わず「如何にしたら隣人になれるか」をもって答え給うた。すなわち隣人なる固定的な範囲が客観的に定まっているのではなく、人は愛をもって他に接する時、その人との間に隣人の関係が成立することを教え給うた。従って「己のごとく汝の隣を愛すべし」は敵をも愛すべき絶対的愛の心をもって自分を支配せしむることである。愛なき者には隣人が無い。従って27節の誡命を実行することができない。教法師が「サマリヤ人」と答え得なかったのは、常に敵視しているサマリヤ人の名を呼ぶことを躊躇したためであろう。

イエス()(たま)ふ『なんぢも()きて()(ごと)くせよ』

註解: 25節の問いに対する答として、イエスはこの一句をもって終りとし給うた。千均の重さを有する一句であり、教法師にとってはその肺腑を貫く言であったろう。結局凡ての律法を成就する者はこの愛敵の精神をもって行動する者である。このイエスの一言より見て、この善きサマリヤ人がこの一つの行為のみによって永遠の生命を嗣ぐものであることをイエスは考え給うたと決定することは行き過ぎである。ただしこのイエスの言とパウロの信仰との外観上の矛盾に拘泥してその本質的一致を見逃してはならない。
要義 [善きサマリヤ人の寓話の教訓]この寓話は、これによって示さんとせる中心的問題、すなわちサマリヤ人の深き愛以外に種々の真理を我らに暗示する。第一にイエスは祭司、レビ人等のごとき宗教の制度に対して常に大きい反感をいだき給うたこと。すなわち信仰生活はかかる外部的制度とは全く没交渉であるのみならず、それらの制度がかえって信仰と反対の事実を生じやすいこと。第二に人種的、種族的、宗派的反感や対立がいかに無意味なものであるかということ。第三に敵をも愛する愛が神の前に如何に貴いものであるかということ。第四に実行に顕れない学問や知識は神の国においては無意味であること等を我らはこの寓話から学ぶことができる。イエスは確かに比喩や寓話の偉大なる天才であった。

6-3-ハ マルタとマリヤ 10:38 - 10:42  

10章38節 かくて(かれ)(すす)みゆく(うち)に、イエス(ある)(むら)()(たま)へば、マルタと()づくる(をんな)おのが(いへ)(むか)()る。[引照]

口語訳一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
塚本訳さてみなが旅行をつづけるうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が家にお迎えした。
前田訳彼らが道行くうち、彼はある村に入られた。マルタという女が彼を家にお迎えした。
新共同一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
NIVAs Jesus and his disciples were on their way, he came to a village where a woman named Martha opened her home to him.
註解: 「或村」はベタニヤであるが(ヨハ11:1)ルカの記事によれば未だベタニヤまで来ているとは考えられない。ただしルカ9:51−18:14は大体においてルカの特種資料を適宜に排列したもので、時と場所とを精確に記した旅行記ということはできない。なおヨハ11:1の記載法は、ルカのこの記事を読者が知っていることを前提としているかのごとくである。また、ルカは女子に関する記事に豊富であることも注意すべき点である。

10章39節 その姉妹(しまい)にマリヤといふ(もの)ありて、イエスの足下(あしもと)()し、御言(みことば)()きをりしが、[引照]

口語訳この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
塚本訳マルタにマリヤという姉妹があった。マリヤは主の足もとに坐ってお話を聞いていた。
前田訳彼女にマリヤという姉妹があって、主のお足もとにすわってお話を聞いていた。
新共同彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
NIVShe had a sister called Mary, who sat at the Lord's feet listening to what he said.

10章40節 マルタ饗應(もてなし)のこと(おほ)くして(こころ)いりみだれ、御許(みもと)(すす)みよりて()[引照]

口語訳ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
塚本訳するといろいろな御馳走の準備で天手古舞をしていたマルタは、すすみ寄って言った、「主よ、姉妹がわたしだけに御馳走のことをさせているのを、黙って御覧になっているのですか。手伝うように言いつけてください。」
前田訳マルタはあれこれのもてなしに忙しくしていたが、進み出ていった、「主よ、姉妹がわたしだけにおもてなしをさせているのをお気にとめてくださいませんか。手伝うようおっしゃってください」と。
新共同マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
NIVBut Martha was distracted by all the preparations that had to be made. She came to him and asked, "Lord, don't you care that my sister has left me to do the work by myself? Tell her to help me!"
註解: マリヤはマルタの妹であったものと推察される。二人の性格に各々特徴あり、マルタは事務的、具体的であり、マリヤは詩的、瞑想的、内面的であった。マルタは広く配慮し、マリヤは深く直感した。マルタはイエスの食事やその身辺のことに心を奪われ、マリヤはイエスの伝道の御言を聴くことにその心を奪われていた。マルタは具体的のことには有能であったけれども霊的のことには関心が薄かった。この二人の性格の差が、自然イエスに対する歓迎の態度を異にする結果となった。
辞解
[心いりみだれ] perispaomai 心を何物かに奪われること。

(しゅ)よ、わが姉妹(しまい)われを一人(ひとり)のこして(はたら)かするを、(なに)とも(おも)(たま)はぬか、(かれ)(めい)じて(われ)(たす)けしめ(たま)へ』

註解: マルタは激しくマリヤを責むると同時に、これを黙許し給うイエスの態度を責めた。そしてイエスをしてマリヤに命じてマルタの働きを助けしめんとした。マリヤの心情の貴さを理解する能力が欠けていた。
辞解
「のこして」とある点より見れば、それまではマリヤも妹と共に家事に働いていたことが判る。
[何とも思ひ給はぬか] 原語「気にし給わないか」の意

10章41節 (しゅ)(こた)へて()(たま)ふ『マルタよ、マルタよ、(なんぢ)さまざまの(こと)により、(おも)(わづら)ひて心勞(こころづかひ)す。[引照]

口語訳主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
塚本訳主が答えられた、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心をつかっているが、
前田訳主は答えられた、「マルタ、マルタ、あなたはあれこれと心を配って落ち着かないが、
新共同主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
NIV"Martha, Martha," the Lord answered, "you are worried and upset about many things,

10章42節 されど()くてならぬものは(おほ)からず、唯一(ただひと)つのみ、マリヤは()きかたを(えら)びたり。(これ)(かれ)より(うば)ふべからざるものなり』[引照]

口語訳しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
塚本訳無くてならないものはただ一つである。マリヤは善い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
前田訳無くてならぬものはただひとつである。マリヤはよいほうを選んだ。それを取りあげてはいけない」と。
新共同しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
NIVbut only one thing is needed. Mary has chosen what is better, and it will not be taken away from her."
註解: 「マルタよ、マルタよ」と繰返し給いしは、強くその教訓をマルタに印象せしめんとしたのである。イエスは勿論マルタの心遣いを嬉しく思わないではなかった。しかしそれよりもさらに大切でありしかも欠くべからざる一つのことがあることをマルタは知らなかった。この世のこと、第二義以下のことに多く心を労するものは、この第一義的のこと、欠くべからざることを忘却してしまうことが多い。この一事はイエスと偕に在り、イエスの御言を聞くことである。マリヤはこれを選んだのであった。たといこのために世の中の風習に反し義務を果たし得ないことがあっても、非難すべきことではなく、かえって善き部分を選んだのであるから、彼に命じてマルタを助けしめることは宜しくないというのがイエスの御旨であった。「途にて誰にも挨拶すな」と教え給いしイエスは、ここでもまた俗的義務を超越して唯一筋に神の国のことを求むべきことを教え給うた。
要義 [マリヤとマルタ]この記事においてイエスはマルタの性格を責め、マリヤの性格を賞(ほ)め給うたのではない。天性は生れながらの傾向であって如何とも為し難い。唯マルタのごとき天性を有っている者は、多くの場合マリヤのごとき性格とその態度とを理解せずにこれを非難する場合が多いので、イエスはこの無理解を戒めると同時に、この世的の人間から無用のごとくに思われる態度の中に、最も重要なるものがあることを示し給うたのである。個人的にも人種的にもこの二種の傾向は分かれているのであるが、その孰(いず)れであるかを問わず、無くてならぬ一事があることを記憶すべきである。この一事を欠くならば、これらの二種の傾向の孰(いず)れも無意味の存在となる。殊にマリヤ的傾向の者は、無くてならぬ一事を選ばないならばこの世にも無益であり、天国にも相応しからざるものとなる。