黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第6章

分類
3 山上の垂訓 5:1 - 7:29
3-4 眼中に人なし 6:1 - 6:18

註解: 第六章はこれを二つの部分に区別することができる。第一は1-18節であって人の行為は人に対してなさるべきではなく神に対してなさるべきであること。第二は19-34節であって我ら財産に寄り頼むべきではなく神に寄り頼むべきであることを教えている。いずれも人間生活をその根本より一変して全く神に帰せしむる語である。

6章1節 (なんぢ)()られんために(おの)()(ひと)(まへ)にて(おこな)はぬやうに(こころ)せよ。(しか)らずば、(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)より(むくい)()じ。[引照]

口語訳自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
塚本訳(しかし戒めだけでなく、行ないにおいても聖書学者、パリサイ人以上でなければならない。すなわち)見せびらかすために、人の見ている前で善行をしないように気をつけよ。そうでないと、あなた達の天の父上の所で褒美をいただくことはできない。
前田訳心せよ、あなた方は義を行なうとき、人々に見られるために彼らの目の前でするな。さもないと、天にいますあなた方の父のもとで報いを得られまい。
新共同「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
NIV"Be careful not to do your `acts of righteousness' before men, to be seen by them. If you do, you will have no reward from your Father in heaven.
註解: 前半の結論である。我らの行動の動機は人に見られんためにあらずして神の義であり、その行動の場所は人の前にあらずして、隠れたるに見給う神の前であるべきである。然るに世の人々の行動の動機は、内容、場所は皆誤れる反対の方向を取っているのであって、かかる人は眼中にただ人のみを置き、人の賞賛を欲し、その反対を恐れる心を以って行動しているのである。天の父はかかる行動の動機とその内容とを知り給うがゆえに、かかる行動を褒賞し給うはずがない。褒賞については5:12要義2参照。

3-4-イ 施しの場合 6:2 - 6:4  

6章2節 さらば施濟(ほどこし)をなすとき、僞善者(ぎぜんしゃ)(ひと)(あが)められんとて會堂(くわいだう)(ちまた)にて()すごとく、(おの)(まへ)にラッパを(なら)すな。[引照]

口語訳だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
塚本訳だからあなたが施しをする時には、偽善者のように、自分の前にラッパを吹きならして(吹聴して)はならない。彼らは人に褒められようとして、礼拝堂や町の中でそうするのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められたとき、)すでに褒美をもらっている。
前田訳施しをするとき、偽善者が人々にほめられるために会堂や道でするように自分の前でラッパを吹くな。本当にいう、彼らはその報いを得ている。
新共同だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
NIV"So when you give to the needy, do not announce it with trumpets, as the hypocrites do in the synagogues and on the streets, to be honored by men. I tell you the truth, they have received their reward in full.
註解: 施しは他人、祈祷(5節以下)は神、断食(16節以下)は自己に対する行為であって、この三者をもって人間の行為の各方面を代表せしめている。施しは善行である。しかしながらこれに危険が伴っているのであって、善行であるだけそれだけ人に知られんことを欲する誘惑に陥り易い。この方法を用いるに至った心を禁じ給うたのである。

(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(かれ)らは(すで)にその(むくい)()たり。

註解: 人の賞賛を博し得てその目的は達せられた。これ以上神の国において神より報いを得ることができない。
辞解
[得たり] 当時の取引において「領収済み」の意味に用いられていた。

6章3節 (なんぢ)施濟(ほどこし)をなすとき、(みぎ)()のなすことを(ひだり)()()らすな。[引照]

口語訳あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
塚本訳あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。
前田訳あなたが施しをするとき、右手のすることを左手に知らすな、
新共同施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
NIVBut when you give to the needy, do not let your left hand know what your right hand is doing,

6章4節 (これ)はその施濟(ほどこし)(かく)れん(ため)なり。さらば(かく)れたるに()たまふ(なんぢ)(ちち)(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
塚本訳これは施しを隠しておくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
前田訳あなたの施しが隠れたところにあるように。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。
新共同あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
NIVso that your giving may be in secret. Then your Father, who sees what is done in secret, will reward you.
註解: 絶対に秘密に施しをなし、自身すらこれを心に留めないまでに至らなければならぬ。隠れし施しが真の施しであり、顕されし施しは自己誇示に過ぎない。慈善は人に知られることによりてその価値を失う。ただ隠れたるに見たまう神のみこれを知り給い、これに報償を与えて給うごとき施しが真の施しである。人の誉れを欲する我らの肉の心はこの教訓に反して働き易い(ヨハ12:43)。
要義1 [慈善事業とキリスト教] キリスト教と慈善事業とは密接の関係があることは、慈善事業がキリスト教国において最も多く発達したのをみても知る事ができ、また日本のごとき非キリスト教国においてすら慈善事業の大部分がキリスト教関係の個人、または団体によって行われているのを見てもこれを証明することができる。けだしキリスト教は愛の宗教であって、他人のかん難不幸を見てこれを黙視するに忍びず、ついに慈善的行為となって現れてくるのである。しかしながらここに一つの危険が潜伏しているのであって、もし慈善が単に一つの事業と化し去り、その中に愛の源泉が湧き出でない場合においては、慈善的行為は一つの偽善と化し去るのであって、神はこれを嫌い給うのである。ゆえに慈善はいわゆる事業であってはならない、また人の眼に麗しく見えんがためになされるものであってはならない。ただ愛の心より流れ出で、神の御前において秘かになさるるものでなければならぬ。かかる行為であるならば一個人の小慈善たると、大なる慈善事業たるとにおいてその価値は少しも異ならない。眼に見ゆる大なる慈善事業をのみ重んずるはキリストの精神に反している。
要義2 [偽善について] 偽善なる文字の言語hypokrisisは元々俳優を意味しており、悲しからざるに嘆き、喜ばしからざるに喜ぶ者の意である。偽善に種々の程度がある。陰に悪を行いつ、陽に善人なるがごとくに装うものは最も幼稚にしておこし易き偽善であり、次に心に悪をいだきつつ表面善行をなすものは、世の標準をもって見れば善人であっても、神の目より見れば一つの偽善であり、さらに偽善の最も恐るべきもの、すなわちキリスト者すら陥り易きものは自己の正義の観念以上に正義を行うことである。これ道徳的に見れば最も立派な善行であるけれども、神の眼にはすべてが明らかであって、神は我らが我らの価値そのままを示さんことを要求し給う、幼児のごとくならずば天国に入ることを得ないのはこのゆえである。多くの人は知らずしてこの偽善の罪を犯している。

3-4-ロ 祈祷の場合 6:5 - 6:8  

6章5節 なんぢら(いの)るとき、僞善者(ぎぜんしゃ)(ごと)くあらざれ。(かれ)らは(ひと)(あらは)さんとて、會堂(くわいだう)大路(おほじ)(つの)()ちて(いの)ることを(この)む。(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、かれらは(すで)にその(むくい)()たり。[引照]

口語訳また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
塚本訳また祈る時には、偽善者のようにしてはならない。彼らは人に見せようとして、礼拝堂や大通りの角に立って祈ることを好むのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められた時、)すでに褒美をもらっている。
前田訳また、祈るとき、偽善者のごとくであるな。彼らは会堂や町角に立って祈りたがるが、それは人々に見せるためである。本当にいう、彼らはその報いを得ている。
新共同「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
NIV"And when you pray, do not be like the hypocrites, for they love to pray standing in the synagogues and on the street corners to be seen by men. I tell you the truth, they have received their reward in full.
註解: 祈りは神に対してなさるべきものである、然るにこれを人に顕さんとし、または人を感動せしめんとしてなす場合においては、彼は偽善者である。何となれば心は人に向かいつつ言葉のみ神に向けられているからである。今日のキリスト教会にかかる祈りが多い。神に達せざる祈りほど無効のものはない、いかに声を大きくしても、いかに衆人仰視の中に祈ってもその祈りは神に達しない。

6章6節 なんぢは(いの)るとき、(おの)部屋(へや)にいり、()()ぢて(かく)れたるに(いま)(なんぢ)(ちち)(いの)れ。さらば(かく)れたるに()(たま)ふなんぢの(ちち)(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
塚本訳あなたが祈る時には、“奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、”隠れた所においでになるあなたの父上に“祈れ。”そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
前田訳あなたが祈るときは部屋に入って戸を閉じ、隠れたところにいますあなたの父に祈れ。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。
新共同だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
NIVBut when you pray, go into your room, close the door and pray to your Father, who is unseen. Then your Father, who sees what is done in secret, will reward you.
註解: ただ全身全霊を神のみに向け、自己の周囲にあるすべてのものを忘れるがことくに祈るべきである。かかる祈りは神に達する。この節も形式的に解せらるべきでない。公衆の前にまたは公衆と共に祈ることが禁じられたのではない。▲口語訳「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」のごとき訳しかたもあり、その他(1)隠れたる処にあることを見たもう汝の父は・・・、(2)隠れたる処にいる汝を見給う父は・・・(3)父は隠れたるところに汝に報給わん・・・、の諸訳あり。文語訳を採る。

6章7節 また(いの)るとき、異邦人(いはうじん)(ごと)くいたづらに(ことば)反復(くりかへ)すな。(かれ)らは(ことば)(おほ)きによりて()かれんと(おも)ふなり。[引照]

口語訳また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
塚本訳また祈るとき、異教人のようにベラベラしゃべるな。彼らは口数が多ければ、聞いてもらえるものと思っている。
前田訳祈るとき異邦人のようにしゃべるな。彼らは多言によって聞かれると思っている。
新共同また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
NIVAnd when you pray, do not keep on babbling like pagans, for they think they will be heard because of their many words.
註解: 南無阿弥陀仏の百万遍や、旧教において主の祈りを繰り返して珠数をもって数えるがごとき、また新教において心にもなき言葉を形式的に繰り返して祈るごときである。キリストはゲッセマネにおいて三度繰り返して祈り給うた、しかしながらこれは一回毎に肺腑より送り出でたる熱祷(ねっとう)であった。これを単なる反復 battalogein と言うことができない。祈りの聞かるるは言葉多きによらずその真剣の程度いかんによる。

6章8節 さらば(かれ)らに(なら)ふな、(なんぢ)らの(ちち)(もと)めぬ(まへ)に、なんぢらの必要(ひつえう)なる(もの)()りたまふ。[引照]

口語訳だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
塚本訳彼らの真似をしてはならない。神はあなた達の父上である。求める前から、あなた達に必要なものをよく御承知である。
前田訳彼らにならうな。あなた方の父なる神は、求めぬ先に要るものを知りたもうから。
新共同彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
NIVDo not be like them, for your Father knows what you need before you ask him.
註解: 祈りは父にその知らざることを知らすにもあらずまた言葉を反復して願事(ねきごと)の印象を深らしむるものでもない。神はすべてこれらを知悉(ちしつ)し給う。ただ自己の切なる思いを神の御前にそのままに展開するに過ぎない。ゆえに彼らに倣って言葉を反復して言うことは無用である。
辞解
[汝らの父は] 口語訳「あなたがたの父なる神は」の「神」は異本による。

3-4-ハ 主の祈り 6:9 - 6:15
(マコ2:25、26) (ルカ2:2-4)  

註解: ここにマタイは祈りについて記すの序(ついで)を以って「主の祈り」をここに挿入している。ルカ伝においてはイエスは或所における祈りの帰途にこの祈りを教え給えるものとして記されているけれども、マタイ伝はその性質上同種類の事柄を一箇所に集めた結果ここに収録したのであろう。

6章9節 この(ゆゑ)(なんぢ)らは()(いの)れ。[引照]

口語訳だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
塚本訳だからあなた達は、このように祈りなさい。──、わたしたちの天のお父様、お名前がきよまりますように。
前田訳それゆえあなた方は次のように祈りなさい。
  天にいますわれらの父上、
  あなたのみ名が聖められますように。
新共同だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
NIV"This, then, is how you should pray: "`Our Father in heaven, hallowed be your name,
註解: この言葉を文字通り繰り返せというのではない、かかる内容を以ってこのごとくに簡潔に祈るべしというのである。この祈りは六つの部分よりなり、始めの三部は神に関し後ろの三部は人に関するものである。

(てん)にいます(われ)らの(ちち)よ、

註解: この呼びかけにより我らの心は先ず父なる神の心に結びつくのである。この霊交なくして祈りはあり得ない。「我らの」父であって「我が父」ではない「我が父」なる言葉はただキリストのみ用い給うことができる。神が単に一つの霊力にあらずして、活ける人格に在りし給うこと、および彼を信ずる者が兄弟姉妹たることは「我らの父」なる言葉によりて示され、また汎神論者の唱えるがごとく万物皆神にあらずして、神は万物の上に高く在(いま)し給う創造主なることは「天に在(いま)す」なる言葉を以って表されている。神を父と呼び奉ることはキリスト以後」において、その真意義を以ってすることができるようになった。

(ねが)はくは御名(みな)(あが)められん(こと)を。

註解: また「御名の聖められんことを」とも訳することができる。「御名」は神御自身というに同じく、神を神として聖め崇め、神にささぐべきすべての崇敬と礼拝を捧げ、そして同時に神以外の何物をも神として崇めないこと、また神の御名が我らの内に聖めらるること、すなわち我らの罪によりて神の御名が汚されざることが御名を崇むるゆえんである。

6章10節 御國(みくに)(きた)らんことを。[引照]

口語訳御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
塚本訳お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。
前田訳あなたのみ国が来ますように。
  あなたのみ心が行なわれますように、
  天のように地にもまた。
新共同御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
NIVyour kingdom come, your will be done on earth as it is in heaven.
註解: 「御国」はまた「汝の御支配」と訳すべき文字であって、現在この人類の世界は悪魔の支配の下にあり(悪魔につぃてマタ4:2、要義1参照)、自己は罪の下に支配せられ、社会も国家も悪の勢力の下に呻吟(しんぎん)し、切に神の子等の顕れんことを待っている(ロマ8:19)。すなわち神の国、メシヤの国が顕れんことは、悩める人類の切なる祈りでなければならない(ピリ3:20)。

御意(みこころ)(てん)のごとく()にも(おこな)はれん(こと)を。

註解: 地上に神の御心が行われんことが我らの切なる願いでなければならない。しかるに我らは常に自己の欲求のごとくに成らんことを願う心が切である。かかる心をもってこの祈りを祈るならば虚偽である。神の御心はあるいは我らの欲求に反する場合が多いであろう。かかる場合にもなお御心の成らんことを祈るのがこの祈りの主意である(マタ26:39、42)。以上の三つの祈りはいずれも神に関するものであるけれどもその中第一は神の御栄え、第二は悪魔の征服、第三は人の肉の征服に関する点で各々特異の点を持っている。次の三つの祈りにもまたこれと同様の区別がある。

6章11節 (われ)らの日用(にちよう)(かて)今日(けふ)もあたへ(たま)へ。[引照]

口語訳わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
塚本訳その日の食べ物をきょうも、わたしたちに戴かせてください。
前田訳われらのその日の糧(かて)をきょうもお与えください。
新共同わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
NIVGive us today our daily bread.
註解: 第四の祈りであって以下は人間に関することがらである。人間の物質的生活の必要についてはその最小限度を祈り求むることを許されているのであって、その一日に必要なるもの(衣食住)を今日も神に乞い神より受けて生活するのが信者の生活である。富者といえどもこれと異ならない。ゆえに生活の最小限度であり、また明日以後のことをすべて神に委(まか)せし絶対信頼の生活である。自らはあるいは生活のために思い煩いつつ、あるいは自己の財産に頼りつつかかる祈りをなすことは虚偽である。
辞解
[日用の] 原語は意義不明の言葉であって「必用の」「翌日の」等と訳する学者もある。

6章12節 (われ)らに負債(おひめ)ある(もの)(われ)らの(ゆる)したる(ごと)く、(われ)らの負債(おひめ)をも(ゆる)(たま)へ。[引照]

口語訳わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
塚本訳罪を赦してください、わたしたちも罪を犯した人を赦しましたから。
前田訳われらの罪をおゆるしください。われらも罪を犯した
   人をゆるしましたから。
新共同わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
NIVForgive us our debts, as we also have forgiven our debtors.
註解: 負債(をいめ)は罪と同義に用いられる(ルカ11:4)。神に罪の赦しを乞う場合にまず自己の罪の悔い改めが必要である、すなわち他人の罪を赦さざりし頑なる心を改め、砕けたる心を以ってすべての人の罪を赦して後に神に赦しを乞わなければならぬ。砕けたる悔い改めの心は自己の罪を意識せる心である、自己の罪を意識せる者は自己に対する他人の罪を責める心を失う、この心を以って神の赦しを乞うことがこの祈りの中心である。人間にとって最大の必要は自己の罪が神より赦されることである。
辞解
[負債] 口語訳には「をいめ」を「ふさい」と読ませているが、通俗に「ふさい」は借金を意味するゆえ、この場合には適当でない。本節の場合すべての果すべき義務を果さないことを意味している。
[如く] 程度や模範を示したものではなく、むしろ自己の心の状態を告白したものと見るべきで「免したのであるから」というがごとき意味であろう。ゆえにエペ4:32と矛盾しない。

6章13節 (われ)らを嘗試(こころみ)()はせず、(あく)より(すく)()したまへ」[引照]

口語訳わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
塚本訳わたしたちを試みにあわせないで、悪から守ってください。
前田訳われらを試みにあわせず、悪者からお守りください。
新共同わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
NIVAnd lead us not into temptation, but deliver us from the evil one. '
註解: キリスト者の生活における最大の敵は悪魔である。キリストを除いて彼に勝ち得る者はない、彼は巧みに我らを試みるのである。ゆえに潔き一生涯を送らんがためには切に悪魔の甞試(しょうし)に逢わせられざらんことを祈るより外はない。「われは悪魔を恐れず」というものは悪魔の力を知らざる蛮勇(ばんゆう)である。以上三つの祈りは人に関する祈りであるけれどもその中第一は人の肉の必要、第二は神の赦し、第三は悪魔との闘いである。神と人と悪魔この三者の闘いが主の祈りの経緯となっていることを見ることができる。
辞解
[悪] この場合「悪しき者」(男性)と訳するを可とする、すなわち悪魔の意味である「より救い出す」は「その中より外に救い出す」意味すなわちekではなく、「それより遠ざけて安全ならしむる」意味すなわちapoである。

6章14節 (なんぢ)()もし(ひと)過失(あやまち)(ゆる)さば、(なんぢ)らの(てん)(ちち)(なんぢ)らを(ゆる)(たま)はん。[引照]

口語訳もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
塚本訳(祈る前に、まず人の罪を許さねばならない。)あなた達が人の過ちを赦してやれば、天の父上もあなた達を赦してくださるが、
前田訳もし人々の罪をゆるすならば、天の父はあなた方をもゆるされよう。
新共同もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
NIVFor if you forgive men when they sin against you, your heavenly Father will also forgive you.

6章15節 もし(ひと)(ゆる)さずば、(なんぢ)らの(ちち)(なんぢ)らの過失(あやまち)(ゆる)(たま)はじ。[引照]

口語訳もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
塚本訳人を赦さないならば、父上もあなた達の過ちを赦してくださらないであろう。
前田訳もし人々をゆるさねば、あなた方の父も罪をゆるされまい。
新共同しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
NIVBut if you do not forgive men their sins, your Father will not forgive your sins.
註解: 人の過失を赦し得ざるは自己の罪を悔い改めざる証拠である(マタ18:23-35)。12節註参照
要義 [主の祈りについて] 人間のすべてを最も簡潔に網羅せる意味において「主の祈り」は祈祷の最良の模範である。とくにまづ神に関する祈りがあり、しかもこれがその半ばを占め、生活に関する祈りが人に関する祈りの一つを占めるに過ぎざることのごときは、人間の自然の要求に反し、高き信仰の結果としてのみ顕れ得べき祈りである。しかしながらルーテルが言えるごとく、不幸にして主の祈りは最大の迫害を受けた殉教者であった。今日もまたそうである。多くの人はこの祈りの内容を心に抱くことなしにこの祈りを口にし、また無意味にこの祈りを繰り返している。キリストはこれを見て祈りを弟子等に教えしことを悔い給うであろう。そしてこの祈りは実に雄大なる祈りであって、現世と来世とを包含するものであるけれども、これを我らに祈るべく教え給える神は必ずこの祈りを聴き給うであろう。そしてキリストの日至ればベンゲルのいえるごとく、神の子等は天において「頌(ほ)むべきかな神の御名、御国は来たれり、御意は成れり、我らの罪は赦されたり、甞試(こころみ)は終われり、そして我らは悪より救われたり、国と権と栄えとは永遠より永遠に汝のものなり。アーメン」なる頌栄(しょうえい)の声を合わせて唱えるに至るであろう。
附記 [頌栄(しょうえい)について] 主の祈りの後に異本に「国と権と栄とは永遠に汝のものなればなり。アーメン」なる頌栄が付加せられているのがある(元日本訳聖書はこれを採用した)。これは後世の追加であって、この主の祈りが教会に於て広く用いらるるに至り、形式上この頌栄が付加せらるるに至ってここに挿入せられたものであろう。それにも関わらず、この頌栄は主の祈りが心より唱えし者の口に自然に湧き出づるところのものであって、我らは主お祈りを祈りて後、神が必ずこの祈りを聴き給うことを信じる時、必ずこの頌栄が心に溢れ出づることを禁ずることができない。ゆえに将来ともこの頌栄は消滅することがないであろう。

3-4-ニ 断食の場合 6:16 - 6:18  

6章16節 なんぢら斷食(だんじき)するとき、僞善者(ぎぜんしゃ)のごとく、(かな)しき面容(おももち)をすな。(かれ)らは斷食(だんじき)することを(ひと)(あらは)さんとて、その(かほ)(いろ)(そこな)ふなり。(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(かれ)らは(すで)にその(むくい)()たり。[引照]

口語訳また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
塚本訳また断食をしている時には、偽善者のように陰気な顔つきをしてはならない。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、(顔を洗わず、髭をそらず、わざと)顔を見苦しくするのである。アーメン、わたしは言う、彼らは(褒められた時、)すでに褒美をもらっている。
前田訳断食するとき、偽善者のように暗い顔をするな。彼らは顔を見ぐるしくして、断食しているのが人々に目立つようにする。本当にいう、彼らはその報いを得ている。
新共同「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
NIV"When you fast, do not look somber as the hypocrites do, for they disfigure their faces to show men they are fasting. I tell you the truth, they have received their reward in full.
註解: 断食(マタ9:14註)を以って自己の修養に関するすべての方面を代表せしめていると考えることができる。人に顕さんとするとき既にその行為の価値を失う。

6章17節 なんぢは斷食(だんじき)するとき、(かしら)(あぶら)をぬり、(かほ)をあらへ。[引照]

口語訳あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
塚本訳あなたが断食をするときは、頭に油をぬり、顔を洗いなさい。
前田訳あなたが断食するときは、頭に油をつけ、顔を洗い、
新共同あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
NIVBut when you fast, put oil on your head and wash your face,

6章18節 これ斷食(だんじき)することの(ひと)(あらは)れずして、(かく)れたるに(いま)(なんぢ)(ちち)にあらはれん(ため)なり。さらば(かく)れたるに()たまふ(なんぢ)(ちち)(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
塚本訳これは断食をしていることを人に見せず、隠れた所においでになるあなたの父上に、見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。
前田訳断食しているのが人々に目立たず、隠れたところにいますあなたの神に見られるようにせよ。そうすれば隠れたところに見たもうあなたの父が報いたまおう。
新共同それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
NIVso that it will not be obvious to men that you are fasting, but only to your Father, who is unseen; and your Father, who sees what is done in secret, will reward you.
註解: 頭に油をぬることはユダヤ人が祝祭の日にこれを行う習慣であった。これを文字通りに行うことがイエスの意味ではない、人に顕わさんがための形式的断食には徹底的に反対の心持をもって断食すべきことを教え給いしものである。▲以上の三つの信仰生活の行為はみな神に対してなさるべきである。人を相手にせず天を相手とするのが信仰生活の本質である。
要義 [眼中に人なし] 神に対する絶対的誠実は眼中にただ神のみを仰ぎて、人を眼中に置かない。もちろん人を軽蔑、または無視する意味ではない、反対に神が人を愛し給う意味においては人を重んじることもちろんである。しかしながら人の毀誉褒貶(きよほうへん)を意に介する意味においては全く人を眼中に置かないのであって、ただ神に対する忠実の心より神と人と自己とに対して行動するのである。そして人を眼中に置くものにして始めて人の眼を暗まさんとして偽善に陥るのと反対に神の前に忠実なるものは絶対に偽善に陥ることができない。キリストの要求し給うものはかかる人であった。もしすべての人がこの誠実を持つことができるならば、この虚偽に充てる世界が神の国と化すのであろう。この聖言に照らしてこの世界を見るとき、そこにはただ偽善のみが支配していることを知るであろう。

3-5 眼中に財産なし 6:19 - 6:34
3-5-イ 財産を地に積むな 6:19 - 6:24
(ルカ12:33、34)   

註解: 人は一方他人の毀誉褒貶(きよほうへん)により動かさるると同時に、他方財産に寄り頼みて神に寄り頼むことをしない。前者は人を偽善に導き後者は人をして憂慮に陥らしむる。偽善と憂慮がこの世の二大疾患である以上、キリストが、この二方面を戒められしことはこの病の根源に触れたものと言わなければならない。

6章19節 なんぢら(おの)がために財寶(たから)()()むな、ここは(むし)(さび)とが(そこな)ひ、盜人(ぬすびと)うがちて(ぬす)むなり。[引照]

口語訳あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
塚本訳(このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえば)あなたたちは衣魚や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、
前田訳あなた方のために宝を地につむな。そこではしみや虫が損ない、盗人が入り込んで取る。
新共同「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
NIV"Do not store up for yourselves treasures on earth, where moth and rust destroy, and where thieves break in and steal.
註解: 神のためを思わず人のためを願わず天を忘れて、ただ己がために地上に財産を積むほど愚かなことはない。動物(蛆)も自然(錆)も人間(盗人)も、みな地上の財産を破滅に帰せしむることができる。またすべての財産はこの何れかの原因によって破壊せらるるに定まっている。

6章20節 なんぢら(おの)がために財寶(たから)(てん)()め、かしこは(むし)(さび)とが(そこな)はず、盜人(ぬすびと)うがちて(ぬす)まぬなり。[引照]

口語訳むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
塚本訳衣魚も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。(そうでないと、心が天に向かないであろう。)
前田訳あなた方のために宝を天につめ。そこではしみも虫も損なわず、盗人が入り込んで取らない。
新共同富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
NIVBut store up for yourselves treasures in heaven, where moth and rust do not destroy, and where thieves do not break in and steal.
註解: 天に財産を積むことは天の所において価値あるものを持つことである。そして天において価値あるものは神の嘉納し給うものより他にない、すなわち善行を行うことである(1テモ6:18、19)。神はこれを嘉納し給い、この嘉納の御心が最も貴き財産として己がために天に貯えられるであろう。この財産を毀損(きそん)し得るものはない。

6章21節 なんぢの財寶(たから)のある(ところ)には、なんぢの(こころ)もあるべし。[引照]

口語訳あなたの宝のある所には、心もあるからである。
塚本訳宝のある所に、あなたの心もあるのだから。
前田訳あなたの宝のあるそのところにあなたの心もある。
新共同あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
NIVFor where your treasure is, there your heart will be also.
註解: 地に財産を積む者は地に愛着し、天に財産を貯える者の心は天の父の御心に注がれる。

6章22節 ()燈火(ともしび)()なり。この(ゆゑ)(なんぢ)()ただしくば、全身(ぜんしん)あかるからん。[引照]

口語訳目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
塚本訳目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、
前田訳体の光は目である。あなたの目が澄んでいれば全身が明るい。
新共同「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
NIV"The eye is the lamp of the body. If your eyes are good, your whole body will be full of light.
註解: 口語訳「澄んでいれば」は、原語haplousの意味を尽くしていない。「純ならば」の方が適当であろう。
辞解
[目ただしくば] 原語haplousは善き意味における単純無雑を意味し、ここでは目に曇りなき事と、24節の一人の主人のみに仕える心、すなわち目が一人の主に向かって迷わないこととの双方に懸けている。人を迷わしむるものは目それ自身があしき場合と、目それ自身健全であっても多くのものに目を奪われて迷う場合と二つあり、この双方とも無き単純清浄なる状態が、このhaplousである。

6章23節 されど(なんぢ)()あしくば、全身(ぜんしん)くらからん。[引照]

口語訳しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
塚本訳目が悪いと、体全体が暗い。だから(天に宝を積まないため、)もしあなたの内の光(である目、すなわち心)が暗かったら、その暗さはどんなであろう。
前田訳あなたの目が暗ければ全身が暗い。あなたの内の光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。
新共同濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
NIVBut if your eyes are bad, your whole body will be full of darkness. If then the light within you is darkness, how great is that darkness!
註解: 燈火が暗夜に人を導くの用をなすと同じく人体にては、手にも足にもあらず目が人を導くの用をなしている。ゆえに目の善き人はその全身白日のごとく、目あしき人は全身暗夜の様である。
辞解
[あしくば] ponērosは邪悪の意。

もし(なんぢ)(うち)(ひかり)(やみ)ならば、その(やみ)いかばかりぞや。

註解: 心の目、心の燈火が明るくなければならない。神と財産とに兼事(かねづか)えんとするものは目ただしくある事ができず、全身を暗闇の中に置くのである。

6章24節 (ひと)二人(ふたり)(しゅ)()(つか)ふること(あた)はず、(あるひ)はこれを(にく)(かれ)(あい)し、(あるひ)はこれに(した)しみ(かれ)(かろ)しむべければなり。(なんぢ)(かみ)(とみ)とに()(つか)ふること(あた)はず。[引照]

口語訳だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
塚本訳(わたし達の心は天か地かに引かれる。)だれも(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。
前田訳だれもふたりの主には仕ええない。ひとりを憎んで他を愛するか、ひとりに頼って他を軽んずるかである。あなた方は神とマモンと両方には仕ええない。
新共同「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
NIV"No one can serve two masters. Either he will hate the one and love the other, or he will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and Money.
註解: 忠臣は二君に仕えず、しかるに神と富とに兼事えんとするキリスト者のいかに多きかを見よ、かれらは暗黒の中に迷わざるを得ないのは当然のことである。
要義1 [キリスト者と財産] キリスト者は二つの意味において財宝を超越しなければならない。その一つは財宝それ自身の性質より、その二は我らのこれに対する関係よりこの必要が起こってくるのである。すなわち第一は財宝はその性質のいかんを問わず破滅すべき性質を持っており、形あるものは必ず滅するの法則に支配せられているものなることを思うとき(Tヨハ2:17)、我らかかる一時的なるものに心を奪われてはならない。また第二に我らの目的は、神に仕え、神を崇め奉ることである。もし我らの心が他のものに奪われるならば、我らは神を拝せず偶像を拝することとある(コロ3:5)。そして財宝は我らの心を奪う力が最も強いのであって、イエスが特に財宝を地に積むなと教え給い、我らの目を単純に神に向けよと勧め給うゆえんはここにあるのである。
要義2 [財宝の蓄財について] 「財宝を地に積むな」との教訓は我らに一銭の貯蓄をも許さない意味であろうか、銀行に預金し公債株券土地家屋を所有することは一つの罪悪であろうか。この聖句を解せんとする者はこの点をまじめに考えなければならぬ。(1)ある人はこれを単に我らにあまり地上の蓄財に熱心になることを戒めたものと解し、普通の蓄財、不慮の費用に対する準備等は差し支えないとの実際的意味に妥協せしめてこれを解釈している。しからざればこの言はあまりに窮屈に過ぎざると思うからである。しかしながらかかる不徹底の態度をもってしては人は信仰の単純さを持つことができない。信仰は妥協を許さない。この聖句には確かに更に徹底せる力があるはずである。(2)それゆえにカトリック教会においては社会を僧俗の二階級に分かち、俗界はこの聖句を遵守し難きゆえにこれを厳格に遵奉することを免し、ただ僧侶階級のみに無所有主義清貧主義を実行せしめ、かくして彼らをもって一層天国に近きものと思わしめていた。しかしながら人間にかかる二種の標準を置くことは主は認め給わなかった。罪は同じく何人にも罪であり、正義は同じく何人にも正義である。(3)ゆえにこの聖句は文字通りに遵奉すべきものでである。ただこれには「己がために」なる条件があるのであって、神がその創造し給える財宝を我らに托し給うとき、我らこれを最も適当に活用増殖貯蓄することは我らの任務である。これは「神のために」貯えるのであって、神がやがてその御旨のままに、これを用い給うのを待つのである。かかる意味において地上に財産を蓄える人と「己がために」これをなす人との間には、外見上明瞭なる差別を認め難い。けれども、神の目には常にこれは明瞭になっているのである。ゆえにこの教訓をもって財産を浪費しつくすべしとの意味に解してはならない。すべての財産は神のものである。そして我らは、神の守護の下にある以上己のために、自己の生活の憂慮よりこれを地上に貯えるの必要はない。しかしながら神に托せられし財宝を増殖し貯蓄してこれを浪費しないのは我らの義務である(マタ25:14-30)。ただ注意すべきことはこれをもって己の不信仰を掩(おお)う理由としてはならないことである。

3-5-ロ 思い煩うな 6:25 - 6:34
(ルカ12:22-31)   

6章25節 この(ゆゑ)(われ)なんぢらに()ぐ、(なに)(くら)ひ、(なに)()まんと生命(いのち)のことを(おも)(わづら)ひ、(なに)()んと(からだ)のことを(おも)(わづら)ふな。生命(いのち)(かて)にまさり、(からだ)(ころも)(まさ)るならずや。[引照]

口語訳それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
塚本訳だから、わたしは言う、何を食べようかと命のことを心配したり、また何を着ようかと体のことを心配したりするな。命は食べ物以上、体は着物以上(の賜物)ではないか。(命と体とを下さった天の父上が、それ以下のものを下さらないわけはない。)
前田訳それゆえあなた方にいう。何を食べようかといのちのことを、何を着ようかと体のことを心配するな。いのちは食べ物に、体は着物にまさるではないか。
新共同「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
NIV"Therefore I tell you, do not worry about your life, what you will eat or drink; or about your body, what you will wear. Is not life more important than food, and the body more important than clothes?
註解: 財産を地上に積まんとする者はその衣食に不安を感ずるからである。しかし衣食のことを考える前に生命、身体のいかなるものなるかを考え見よ、これらは衣食より遥かに勝っている貴重のものでは無いか。そしてこの生命と身体は神の直接の御支配の下りにあり、神これを養いこれを飾り給う、ゆえに衣食の不安は全く無用の思い煩いである。このことを主は26-30節に例をもって示し給う。
辞解
この一節の訳は元訳が勝っている。

6章26節 (そら)(とり)()よ、()かず、()らず、(くら)(をさ)めず、(しか)るに(なんぢ)らの(てん)(ちち)は、これを(やしな)ひたまふ。(なんぢ)らは(これ)よりも(はるか)(すぐ)るる(もの)ならずや。[引照]

口語訳空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
塚本訳空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切ではないのだろうか。
前田訳空の鳥を見よ。まかず、刈らず、倉にしまわないが、しかも天にいますあなた方の父が養いたもう。あなた方は彼らよりはるかにまさるではないか。
新共同空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
NIVLook at the birds of the air; they do not sow or reap or store away in barns, and yet your heavenly Father feeds them. Are you not much more valuable than they?
註解: まず生命のことを考えて見るならば、空の鳥をすら養いてその生命を維持し給う天の父は、その像(かたち)に似せて造り給える人間を養い給わない理由はない。例えば関東大震災において幾百万の人は全財産を失ったけれども幾何(いくばく)の人が餓死せしかを見よ。天の父は彼らを養い給うた。全心をもって神に信頼する者をば神必ずこれを養い給う。

6章27節 (なんぢ)らの(うち)たれか(おも)(わづら)ひて()(たけ)一尺(いっしゃく)(くは)()んや。[引照]

口語訳あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
塚本訳(だいいち、)あなた達のうちのだれが、心配して寿命を一寸でも延ばすことが出来るのか。
前田訳心配によってあなた方のだれが寿命をちょっとでも延ばせるか。
新共同あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
NIVWho of you by worrying can add a single hour to his life ?
註解: ここでは生命について論じている場合であるから「身の長」の原語ヘリキヤhelikiaを「生命」と訳する方が勝っている事と思う、すなわち我らの生命は完全に神の御手にあり、我らは絶対にこれに対して無力であって、いかに思い煩ってもこれを伸縮することができない。

6章28節 (また)なにゆゑ(ころも)のことを(おも)(わづら)ふや。()百合(ゆり)如何(いか)にして(そだ)つかを(おも)へ、(らう)せず、(つむ)がざるなり。[引照]

口語訳また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
塚本訳また、なぜ着物のことを心配するのか、野の花の育つのを、よく見てごらん、苦労をせず、紡ぐこともしない。
前田訳また、着物について何を心配するのか。野の花がどう育つか、つぶさに見よ。苦労せず、紡ぎもしない。
新共同なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
NIV"And why do you worry about clothes? See how the lilies of the field grow. They do not labor or spin.

6章29節 されど(われ)なんぢらに()ぐ、榮華(えいぐわ)(きは)めたるソロモンだに、その服裝(よそほひ)この(はな)(ひと)つにも()かざりき。[引照]

口語訳しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
塚本訳しかし、わたしは言う、栄華を極めたソロモン(王)でさえも、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。
前田訳しかしわたしはあなた方にいう、繁栄の極みでのソロモンさえそのひとつほどに着飾れなかった。
新共同しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
NIVYet I tell you that not even Solomon in all his splendor was dressed like one of these.
註解: 26、27節に生命の例を揚げ、28-30節に身体の例として野の百合を揚げている。神は労せず(男)紡がさる(女)野の百合を天の露地(ろじ)の水をもって育て、これをソロモン王にもまさる美はしきをもって飾り給う。

6章30節 今日(けふ)ありて明日(あす)()()()れらるる()(くさ)をも、(かみ)はかく(よそほ)(たま)へば、まして(なんぢ)らをや、ああ信仰(しんかう)うすき(もの)よ。[引照]

口語訳きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
塚本訳きょうは花咲き、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこんなに装ってくださるからには、ましてあなた達はなおさらのことではないか。信仰の小さい人たちよ!
前田訳きょう盛り、あす炉に投げ込まれる野の草をも神はこれほど装いたもう。ましてあなた方を、ではないか、信仰の小さい人たちよ。
新共同今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
NIVIf that is how God clothes the grass of the field, which is here today and tomorrow is thrown into the fire, will he not much more clothe you, O you of little faith?
註解: 誰がこの結論を否定し得るものがあろうか。これほど明瞭なる大真理はない。それにもかかはらず事実すべての人が衣食のために思い煩うはなぜであるか、信仰薄きがゆえである。イエスはこの不信仰に対して心より嘆息し給うた。

6章31節 さらば(なに)(くら)ひ、(なに)()み、(なに)()んとて(おも)(わづら)ふな。[引照]

口語訳だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
塚本訳だから、『何を食べよう』とか、『何を飲もう』とか、『何を着よう』とか言って、心配するな。
前田訳それゆえ、何を食べよう、何を飲もう、何を着ようとかといって心配するな。
新共同だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
NIVSo do not worry, saying, `What shall we eat?' or `What shall we drink?' or `What shall we wear?'
註解: 空の鳥と野の百合の例を示して25節を証明しここに再び同一の教訓を繰り返してその意を強めている。

6章32節 (これ)みな異邦人(いはうじん)(せつ)(もと)むる(ところ)なり。(なんぢ)らの(てん)(ちち)は、(すべ)てこれらの(もの)(なんぢ)らに必要(ひつえう)なるを()(たま)ふなり。[引照]

口語訳これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
塚本訳それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である。
前田訳これらすべては異邦人も求めている。天にいますあなた方の父はこれらすべてが要(い)ることを知りたもう。
新共同それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
NIVFor the pagans run after all these things, and your heavenly Father knows that you need them.
註解: 神を知らざる異邦人は切にこれらを求む。これ神が彼らを養い給うことを知らないからである。しかしながらキリストの弟子にはその必要がない、天の父が我らの必要を知悉(ちしつ)し給うからである。ゆえに「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈りつつ全く思い煩いはないのが天に父を持つキリスト者の当然の態度である。

6章33節 まづ(かみ)(くに)(かみ)()とを(もと)めよ、さらば(すべ)てこれらの(もの)(なんぢ)らに(くは)へらるべし。[引照]

口語訳まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
塚本訳あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。
前田訳まず彼の国と義を求めよ。そうすればこれらすべてがあなた方につけたされよう。
新共同何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
NIVBut seek first his kingdom and his righteousness, and all these things will be given to you as well.
註解: ます第一に求むべきものは、この世より悪の勢力を駆逐して、神御自身の支配し給う国の実現せん事(マタ6:10)と、「己の義」(マタ6:1)にあらずして「神の義」、すなわち神の見て以って正しとし給う事の実現せん事である。すなわち全力を尽くして神の御旨に叶う正義の国を実現せんため不義と戦う事である。かく全く全心を以って神を慕うものを神は飢寒(きかん)に死なしむるはずはない。ゆえに我らの全精力は本来この要求に向けられるべきものであった。しかるにこの反対に衣食の思い煩いに人はその全精力を傾注している。ゆえにその求むるものを得ず、いわんや神の国と神の義とは彼らに与えられない。▲「神の国の」の「国」basileia はむしろ「支配」と訳すべきである。basileusは「王」、basileuō は「支配する」、basileiaは「支配する事」である。ドイツ語のHerr、Herrschen、Herrschaftもこれに相当する。人が神に全く服従する場合、そこに「神の支配」があり「神の国」がある。「国」を政治的の国と混同してはならない。

6章34節 この(ゆゑ)明日(あす)のことを(おも)(わづら)ふな、明日(あす)明日(あす)みづから(おも)(わづら)はん。一日(いちにち)苦勞(くらう)一日(いちにち)にて()れり。[引照]

口語訳だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
塚本訳だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。
前田訳あすのため心配するな。あすのことはあす自体が心配しよう。一日にとってはその日の苦労で十分である。
新共同だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
NIVTherefore do not worry about tomorrow, for tomorrow will worry about itself. Each day has enough trouble of its own.
註解: 神にすべてをまかせ奉れる生涯は少しの憂慮もない。その日々に神の与えたもうものを与えたもうままに受け、明日の事は明日自ら思い煩うにまかせて(「明日」なるものを人間に擬した言い方)自分はこれと無関係に生きるのが彼らである。ゆえに今日苦労来たれば喜んでこれを受け、明日また再び苦労を与えらるればまた喜んでこれを受け(ロマ5:3)、更に翌日を思い煩わない。一日の労苦はその日に取って充分過ぎるのであって明日の苦労までもその日に取り越さない、これが生活の本領である。
辞解
[労苦] 原語カキヤkakia「悪」を意味しこの場合は「いやなこと」という意味に用いられている。
要義1 [憂慮なき生活] 思い煩い無き生活とはいかなるものであろうか。神にすべてを任せ奉れる生活は多くの世の人の想像するごとく、自らは抽手(ちゅうしゅ)無為に過しつつ、神来たりて彼らを養い、彼らに着せ給うのを待つごとき生活では無い、またここに空の鳥と野の百合を以って示されしごとき「播かず刈らず倉に収めず、労せず紡がざる」怠惰者の生活でも無い。神に任せし生活は自己の衣食のみを任せて他は自己の勝手に生活するというのでは無く、全生活を神に任せ切った事である。ゆえにその与えられし本能も才能もすべて神の御旨のままにこれを用い、播くべき時に播き刈るべき時に刈り倉に収むべき時に収めるのが、神にすべてを任せし者の生活である。ただ彼らはこれを神の御旨によりて行い、自己の衣食に対する思い煩いのゆえにこれを為すのでは無い。この点において彼らの生活が世の人の生活と根本的に異なっているのである。神に任せて思い煩はざる生活を以って、無為徒食の居候の生活と思うのは大なる誤りである。
要義2 [絶対信頼の生活] 信頼し得べからざるものに信頼する人は愚人であると同じく、信頼すべきものまた信頼し得べきものに信頼しないのもまた愚人でなければならない。もし神の万能全知にありし給う事が一つの観念に過ぎずして、事実でないならば、神は信頼し得ないはずである。これに反しもしこれが一つの事実であるならば、神ほど信頼し奉るに相応しき御方は無い。そして実際神は全知全能に在りし給うがゆえに、彼、我らを養い給うとききて我らこれに絶対の信任を献(ささ)げ奉る事ができる。もしこの世に安全の保障というものがあるならば、これほど安全確実なる保障は他に無いであろう。しかるに人はこの神に絶対信頼をささげて思い煩はないだけの信仰を持ち得ないのは、実に驚くべき不信仰である。キリスト者と称する者の中にすらこの信仰が無いのは悲しい事である。
要義3 [ああ信仰うすき者よ] 主イエスが弟子らの薄信を責め「ああ信仰うすき者よ」といい給いし事四度であった。その各々が弱き信仰より来る特種の結果を示している。第一の結果は「思い思い」(マタ6:30)であり、第二の結果は「恐怖」(マタ8:26)であり、第三の結果は「疑惑」(マタ14:31)であり、第四の結果は「議論」(マタ16:8)であった。不信仰は必ずこれらの中の一つまたはその以上の結果を来たらしむるものである。

マタイ伝第7章
3-6 裁くなかれ 7:1 - 7:5
(ルカ6:37、38)(ルカ6:41、42) 

7章1節 なんぢら(ひと)(さば)くな、(さば)かれざらん(ため)なり。[引照]

口語訳人をさばくな。自分がさばかれないためである。
塚本訳(人を)裁くな、自分が(神に)裁かれないためである。
前田訳裁くな、裁かれないために。
新共同「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
NIV"Do not judge, or you too will be judged.

7章2節 (おの)がさばく審判(さばき)にて(おのれ)もさばかれ、(おの)がはかる(はかり)にて(おのれ)(はか)らるべし。[引照]

口語訳あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
塚本訳(人を)裁く裁きで、あなた達も裁かれ、(人を)量る量りで、あなた達も量られるからである。
前田訳あなた方がひとを裁くように自らも裁かれ、ひとをはかるように自らもはかられる。
新共同あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
NIVFor in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
註解: 霊的に高所に達せる者の最も陥り易き誘惑は霊的高慢であって、これにより人を審くこと、殊に充分の愛と同情と知識とを有たずして審くことである。かくして他人を審く者をば同様に世の終末において神は同じ審判をもってさばき給うであろう。いかなる人も審かるべき点なきまでに完全ではない。ただし愛をもって、殊にキリストに対する愛をもって審くべき場合あることを忘れてはならない(Tコリ5:3、12。6:1−4)。この場合ならば同じ量りをもって量らるることは幸いなことである。又この戒めは善悪の判断を喪失すべしとのことではない。▲唯、人は皆−キリスト者さえも−他を審くに急であって、自己を顧みることが少ないことを注意されたのである。

7章3節 (なに)ゆゑ兄弟(きゃうだい)()にある(ちり)()て、おのが()にある梁木(うつばり)(みと)めぬか。[引照]

口語訳なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
塚本訳なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気付かないのか。
前田訳なにゆえ兄弟の目にあるちりが見えて、あなたの目にある梁(はり)に気づかないか。
新共同あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
NIV"Why do you look at the speck of sawdust in your brother's eye and pay no attention to the plank in your own eye?

7章4節 ()よ、おのが()梁木(うつばり)のあるに、いかで兄弟(きゃうだい)にむかひて、(なんぢ)()より(ちり)をとり(のぞ)かせよと()()んや。[引照]

口語訳自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
塚本訳また、どうして兄弟にむかって、『あなたの目の塵を取らせてくれ』と言うのか。そら、自分の目に梁があるではないか。
前田訳どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取ってあげよう、といえるか、相変わらずあなたの目に梁があるのに!
新共同兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
NIVHow can you say to your brother, `Let me take the speck out of your eye,' when all the time there is a plank in your own eye?
註解: 塵は道徳的欠点又は教理上の欠点であって、梁木(うつばり)は愛なき欠点である。偽善者は他を審くに厳であって己を責むるに寛である。愛なしに人の小過を責めてこの己の大過を見逃している。これを改めて先ず己を正しくし、殊に愛をもって他人に対することをしなければならない。ここにイエスはすべての人に共通なる欠点を指摘し、殊にこの欠点が自らを義とする者に起り易き欠点であるのを見て弟子等を戒め給うたのである。

7章5節 僞善者(ぎぜんしゃ)よ、まづ(おの)()より梁木(うつばり)をとり(のぞ)け、さらば(あきら)かに()えて、兄弟(きゃうだい)()より(ちり)()りのぞき()ん。[引照]

口語訳偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
塚本訳偽善者!まず自分の目の梁を取ってのけよ。その上で、兄弟の目の塵を(取ってやれるなら、)取ってやったらよかろう。
前田訳偽善者よ、まず自らの目から梁を取れ。見えたうえで兄弟の目からちりを取るようにせよ。
新共同偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
NIVYou hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother's eye.
註解: 自己の欠点を除き去ったもの、すなわち偽善も傲慢も無慈悲もこれを除き去って、唯愛心に支配せらるる場合に始めて真の意味において兄弟を審き、兄弟の目より塵を取り除くことができる。要するに人を審き得るものは神及び神の心をもって心としている人より外にない。その以外のものは自己の目に尚取り除くべき梁木(うつばり)を持っている。
要義 [他人を審くことについて] 「人を審くな」との聖言は我らの重大なる欠点に触れていることは事実である。しかしながらこれがために我ら他人の善悪を無視混合して可なりやというにそうではない。預言者も、イエス・キリストも使徒等も最も強烈に世の人の不信、偽善、涜神を責めた。この意味において彼らは最も激しき審判を下したのである。この点において我らもまた彼らに倣うべきである。ゆえに彼らがいかなる立場において世を審いたのであるかを見なければならない。彼らは(1)自己の趣味、嗜好、主義によりて人を審かず、唯神の言と神の律法とに従って審いた。(2)彼らは自己の名誉や悪意、嫉妬、徒党によりて人を審かず、愛と正義の観念より審いた。(3)彼らは人を滅亡に至らしめんとして審かずこれを救わんとして審いた。要するに神は愛なるがゆえに人の罪を悲しみ、これを叱責矯正せんがためにこれを審き給う、我らの審きもまたかくのごとくでなければならない。要するに神の御旨に従って審き、これに反して審かないのがキリスト者の常住の態度でなければならない。

3-7 犬豚に聖物を与えるなかれ 7:6

7章6節 (せい)なる(もの)(いぬ)(あた)ふな。[引照]

口語訳聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
塚本訳(とはいえ、正しい判断は出来ねばならない。神に供えた肉など)神聖な物を犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。豚はそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた達を噛み裂くかも知れない。
前田訳聖なるものを犬にやるな。真珠を豚の前に投げ与えるな。さもないと、彼らはそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方を噛み裂こう。
新共同神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
NIV"Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and then turn and tear you to pieces.
註解: 前数節において濫(みだ)りに審くべからざることを教え、ここにはその反対の場合すなわちあまりに無差別に陥ることなきように戒めを与えている。「聖なる物」は神のもの、すなわち神より我らに与えられし福音の真理である。この真理は貴きこと真珠のごときものである。この真理を托されし者は、己の預っているものの極めて貴重なるものであることの自覚がなければならぬ。伝道が必要であるとの考えの下にこの貴重なる真理を、あたかも紙屑を投げ与えることくに人を選ばず濫りに与うることは聖物冒涜である。「犬」「豚」いずれも汚物をもって生きている動物であって、神の聖なるものを好まず、汚穢の中に喜んで生活している不信者を意味している。かかる者の中に「聖なる物」に対して全く無感覚なる者があるゆえ、かかる者に対して「聖なる物」を濫(みだ)りに与えてはならぬ。勿論犬豚と然らざるものとの区別が常に明瞭にこれを知ることができるというのではない。唯自己の所持している宝の貴重さを自覚しているならば、これをある程度まで見分けることができるであろう。

また眞珠(しんじゅ)(ぶた)(まへ)()ぐな。(おそ)らくは(あし)にて()みつけ、()(かへ)りて(なんぢ)らを()みやぶらん。

註解: 彼らは福音を受けざるのみならず、かえってこれに対して冒涜を敢てし、又この福音の使者に害を与えることがある。これによりて啻(ただ)に彼らを救うことができないのみならず自らも損害を蒙り、殊に福音が汚され神の御栄えが涜(けが)されることは許すべからざる事柄である。ゆえによく人を見分け、かつ自己の齎(もたら)すものの貴重さを敬重しなければならぬ。▲外国人宣教師が日本人に伝道する際に本節の注意が殊に必要である。

3-8 祈り求めよ 7:7 - 7:12
(ルカ2:9-13) 

7章7節 (もと)めよ、さらば(あた)へられん。(たづ)ねよ、さらば見出(みいだ)さん。(もん)(たた)け、さらば(ひら)かれん。[引照]

口語訳求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
塚本訳(ほしいものはなんでも天の父上に)求めよ、きっと与えられる。さがせ、きっと見つかる。戸をたたけ、きっとあけていただける。
前田訳求めよ、さらば与えられよう。たずねよ、さらば見いだそう。戸をたたけ、
新共同「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
NIV"Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.
註解: 「求め」「尋ね」「門を叩く」ことは、その求むる熱心の度合いのいよいよ切なることを示す。神はその子等にその賜物を与えることを欲し給う。唯これを求めざる者の懐中に強いてこれを押込み給わず、求むる者にのみ与え給う。これ犬や豚に聖きものを与えてかえってこれを涜(けが)すことなからんがためである。それゆえにすべての人、神より聖き賜物を得んがためには先ず求むる心を起さなければならない。ここに何を求むるべきかにつきて述べられていない。従って求むるものに制限はない。唯6:33。7:6等より「先ず神の国と神の義」とを求むべきことを暗示しているものとみることができよう。ルカ11:13に「求むるものに聖霊を与えざらんや」とあるのを参照すべし。

7章8節 すべて(もと)むる(もの)()、たづぬる(もの)()いだし、(もん)をたたく(もの)(ひら)かるるなり。[引照]

口語訳すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
塚本訳だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
前田訳さらば開かれよう。すべて求めるものは受け、たずねるものは見いだし、戸をたたくものには開かれる。
新共同だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
NIVFor everyone who asks receives; he who seeks finds; and to him who knocks, the door will be opened.
註解: この世における普通の現象を示して神の国においてもこれと異ならざることを示す。創32:23-29.ルカ11:5−9参照。

7章9節 (なんぢ)()のうち、(たれ)かその()パンを(もと)めんに(いし)(あた)へ、[引照]

口語訳あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
塚本訳あなた達のうちには、自分の子がパンを求めるのに、石をやる者がだれかあるだろうか。
前田訳あなた方のうちにおのが子がパンを求めるのに石を与え、
新共同あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
NIV"Which of you, if his son asks for bread, will give him a stone?

7章10節 (うを)(もと)めんに(へび)(あた)へんや。[引照]

口語訳魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
塚本訳また魚を求めるのに、蛇をやる者があるだろうか。
前田訳魚を求めるのに蛇を与える人があろうか。
新共同魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
NIVOr if he asks for a fish, will give him a snake?
註解: 石はパンに似ていてもパンの役に立たない、蛇は魚に近くとも有毒である。

7章11節 さらば、(なんぢ)()しき(もの)ながら、()賜物(たまもの)をその()らに(あた)ふるを()る。まして(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)は、(もと)むる(もの)()(もの)(たま)はざらんや。[引照]

口語訳このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
塚本訳してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。ましてあなた達の天の父上が、求める者に善い物を下さらないことがあるだろうか。
前田訳そのように、あなた方が悪人であってもおのが子らによいものを与えることを知るならば、まして天にいますあなた方の父は求めるものによいものを与えられよう。
新共同このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
NIVIf you, then, though you are evil, know how to give good gifts to your children, how much more will your Father in heaven give good gifts to those who ask him!
註解: 不完全なる人間の父すらその子を愛する以上、これと天の父の愛とを比較するならば、求むる者の必ず与えらるることを確信することができる。この確信をもって父に祈り求むることを得る者は幸いである。ただし父は「善きもの」より外に与え給わない。悪しきものを求めても与えらるることはできない。ルカ11:13以下。
辞解
[悪しき者] 特別に悪人という意味ではなく、生れながら罪性を有する人間という意味。

7章12節 さらば(すべ)(ひと)()られんと(おも)ふことは、(ひと)にも(また)その(ごと)くせよ。これは律法(おきて)なり、預言者(よげんしゃ)なり。[引照]

口語訳だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
塚本訳だから、何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言書(と[聖書]の精神)である。
前田訳それゆえすべて自分にしてもらいたいことは、あなた方もそのように人々にせよ。それが律法であり預言書である。
新共同だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
NIVSo in everything, do to others what you would have them do to you, for this sums up the Law and the Prophets.
註解: 神の愛はその子の求めに応じてよきものを与え、その子の幸福を専ら願い、遂には人の心の求めを知りてその独り子をすら与え給う、人の愛ももしそれが聖愛であるならばこれと同じであるはずである。而してもしかくして与えらるることの幸福を思うならば汝らもまた己のことのみを思わず、人にかくのごとく行うべしとの命令である。これいわゆる金条であってすべての行為の基準となるべきものである。而してこれ律法と預言者すならち旧約聖書の精神に外ならぬ。
辞解
この節はルカ6:31には前後の関係が明瞭であるけれども、ここではやや不明瞭で、従って種々の説が起り得るのである。マタイは恐らく、神の賜物と神の愛とを思い、又かくのごとくに行う人を考え、自己もまたかくのごとくに行わざるべからざることに想到したのであろう。ヨハ3:16。Tヨハ4:10、11。
要義 [求むるものは必ず与えられる]求むる者が必ず与えられるとの信仰をもって祈ることができることは幸いである。而して主これを約束し給う以上、このことに誤りあるべきはずがない。ゆえに我らはすべての求めを必ず与えらるるの確信をもって祈るべきである。しかしながら事実として我ら祈って与えられない場合がある、愛する者の病の癒されんことを熱祷したにもかかわらず聴かれずして召さるることもある。経済的困難その他の艱難を脱せんことを節に祈り求めてもこれを脱することができないこともある。その理由は、(1) 自己の慾を基としたる祈りである場合(病を癒されんことすら、自己の慾を基とせざることが必要である)であって「御意の成らんことを」祈るキリスト者は、自己の慾を基としたる祈りを為すべきではない(ヤコ4:3)。(2) 求むる処のものが彼に害を与うることを神が認め給う時、例えば小児がナイフを求めるも、父がこれを与えないと同様である(マタ20:22)。(3) 神が彼が求むるものよりもさらによきものを与えんとし給う時、例えば肉の生命を求むる者に永遠の生命を与えんがためその病を癒し給わざるがごとき。(4) 又神が人の求むるものを他日与えんとし今与うる時機にあらずと見給う時。これらの場合においては祈り求むるものが直ちに与えられないけれども結局与えられない方が幸福であるか、又はさらによりよきものが与えらるるか、又はやがて与えらるるのである。ゆえに「求むる者によきものを与え給う」神は我らの祈りを必ず何らかの形において、聴き給うことを確信すべきである。

3-9 生命に至るの路 7:13 - 7:14
(ルカ13:33、34) 

7章13節 (せま)(もん)より()れ、(ほろび)にいたる(もん)(おほ)きく、その(みち)(ひろ)く、(これ)より()(もの)おほし。[引照]

口語訳狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
塚本訳狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。
前田訳狭い門から入れ、滅びに至る道は大きく広く、そこから入る人が多いから。
新共同「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
NIV"Enter through the narrow gate. For wide is the gate and broad is the road that leads to destruction, and many enter through it.

7章14節 生命(いのち)にいたる(もん)(せま)く、その(みち)(ほそ)く、(これ)()(いだ)(もの)すくなし。[引照]

口語訳命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
塚本訳命にいたる門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!
前田訳いのちに至る門は狭く、道は細く、それを見いだす人は少ない。
新共同しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
NIVBut small is the gate and narrow the road that leads to life, and only a few find it.
註解: 「我は門なり、おおよそ我によりて入る者は救わる」(ヨハ10:9)。「我は道なり・・・・・我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし」(ヨハ14:6)。このイエスの門、イエスの道のみ人を救いに至らしむるにも関わらず、これを見出しこれに入る人は極めて少数である(いわゆるキリスト教国においても然り)。然るに財貨、名誉、快楽、地位、学問を求めて進む人は非常に多い。世の多くの人は後者を求めて馳駆(ちく)し、極めて少数者のみ前者の路を取らんとしている。これ前者は細く狭く、後者は広く大きいからである。ゆえに熱心に生命に至らんことを求めることが必要である。唯漠然他人の歩むを見てその後に従って行くならば必ず滅亡に至るであろう。
辞解
[狭き] stenos は又「真直ぐなる」の意味もあり。

3-10 偽牧師に対する警戒 7:15 - 7:23
(ルカ6:43-46)(ルカ13:26、27) 

註解: 山上の垂訓が人生のすべての方面を網羅していることは感謝すべきであって、啻に自己の問題のみならず、自己に対して危険を与うる偽教師に対する注意をも与えている。

7章15節 (にせ)預言者(よげんしゃ)(こころ)せよ、(ひつじ)扮裝(よそほひ)して(きた)れども、(うち)(うば)(かす)むる豺狼(おほかみ)なり。[引照]

口語訳にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
塚本訳偽預言者に用心せよ。(やさしい)羊の皮をかぶって来るが、内側は強盗の狼である。
前田訳偽(にせ)預言者に気をつけよ、彼らは羊の衣を着て来るが、内側は強盗の狼である。
新共同「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
NIV"Watch out for false prophets. They come to you in sheep's clothing, but inwardly they are ferocious wolves.
註解: 偽の教師は羊を自己の餌食にせんがために来り、真の預言者(教師)は羊のために自己の生命を棄つ(ヨハ10:11)。ゆえに前者はたとい羊のごとく装うとも実は奪い掠(かす)むる豺狼(おおかみ)のごとく、羊の群れを自己のものとせんとし、後者は反対に自己を羊のものとせんとする。
辞解
[偽預言者] イエスは教師を預言者と呼び給うた。神に代りて神の旨を語るものであるからである。

7章16節 その()によりて(かれ)らを()るべし。(いばら)より葡萄(ぶだう)を、(あざみ)より無花果(いちぢく)をとる(もの)あらんや。[引照]

口語訳あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
塚本訳(結ぶ)実で偽預言者はわかる。茨から葡萄が、薊から無花果がとれようか。
前田訳彼らの実でわかる。茨(いばら)からぶどうが、あざみからいちじくが取れようか。
新共同あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
NIVBy their fruit you will recognize them. Do people pick grapes from thornbushes, or figs from thistles?
註解: たといその教理は正しく又その態度は信仰的であり、またその行為が霊的に見えてもこれによりて教師の真偽を分つの標準とすることができない。主要の問題は心がキリストに連なり彼の御旨に従っているかどうかにある。その人の行為はその心から自然に流れ出るのであって、この点において彼は欺くことができない、ゆえに果を見てその樹を知ることができる。

7章17節 ()く、すべて()()()()をむすび、()しき()()しき()をむすぶ。[引照]

口語訳そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
塚本訳(そのように、)善い木は皆良い実を結び、わるい木は悪い実を結ぶ。
前田訳そのように、よい木は皆よい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
新共同すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
NIVLikewise every good tree bears good fruit, but a bad tree bears bad fruit.

7章18節 ()()()しき()(むす)ぶこと(あた)はず、()しき()はよき()(むす)ぶこと(あた)はず。[引照]

口語訳良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
塚本訳善い木に悪い実がなることは出来ず、わるい木に良い実がなることも出来ない。
前田訳よい木に悪い実がなることはできず、悪い木によい実がなることもできない。
新共同良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
NIVA good tree cannot bear bad fruit, and a bad tree cannot bear good fruit.
註解: 善き樹とは内に信仰による真理と光と愛の充てる心をいい、善き果とはこれより流れ出づる聖き生活、愛と犠牲の生涯、要するにキリストのごとき生涯を指す。悪しき樹とは内に虚偽と貪慾と暗黒とを蔵し、これより流れ出づる徒党、私慾。罪悪の生活と指す。一見信仰的に見ゆる業(22節のごとき)ももしこれが愛と真理とより出づるにあらざれば悪しき果である。
辞解
[むすぶ] 原語 ポイエオー poieō は又「行う」「為す」等の意味を持っており内に充てるものが外部に溢れ出づる形を表わしている。「詩」「詩人」等もこの語源から来ている。すなわち偽預言者の行為とはその学問や教理ではなくその心の奥底から流れ出づる行為を指す。

7章19節 すべて()()(むす)ばぬ()は、()られて()()()れらる。[引照]

口語訳良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
塚本訳良い実を結ばない木はどんな木でも、切られて火の中に投げ込まれる。
前田訳よい実を結ばぬ木は皆切られて火に投げ込まれる。
新共同良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
NIVEvery tree that does not bear good fruit is cut down and thrown into the fire.

7章20節 さらばその()によりて(かれ)らを()るべし。[引照]

口語訳このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
塚本訳それだから、(結ぶ)実で、偽預言者はわかるのである。
前田訳それゆえ、彼らの実でわかる。
新共同このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
NIVThus, by their fruit you will recognize them.

7章21節 (われ)(むか)ひて(しゅ)(しゅ)よといふ(もの)、ことごとくは天國(てんこく)()らず、ただ(てん)にいます()(ちち)御意(みこころ)をおこなふ(もの)のみ、(これ)()るべし。[引照]

口語訳わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
塚本訳わたしに『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父上の御心を行う者(だけ)が入るのである。
前田訳天国に入るのは、わたしに『主よ主よ』というだれでもではなく、天にいますわが父のみ心を行なうものである。
新共同「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
NIV"Not everyone who says to me, `Lord, Lord,' will enter the kingdom of heaven, but only he who does the will of my Father who is in heaven.
註解: 神は人の外部の行為によらず心の奥底を見給う。ゆえに天国に入る者は外観信者らしく見ゆる者ではなく、父の御意をおこなう者(この「おこなう」はポイエオーにして、果を「結ぶ」と同文字)、すなわち父の御意に従う心から行為を生むのである。この聖句は「信仰によりて義とせらるること」(ロマ3:28)を否定するにあらず、むしろこれを確かめる力を有っている。何となれば真の信仰は行為を生むからである。▲そして同時に信仰を口だけで告白している者の中に、真の信仰者でない者があることは、その生活や行為によって知ることができる。

7章22節 その()おほくの(もの)われに(むか)ひて「(しゅ)よ、(しゅ)よ、(われ)らは(なんぢ)()によりて預言(よげん)し、(なんぢ)()によりて惡鬼(あくき)()ひいだし、(なんぢ)()によりて(おほ)くの能力(ちから)ある(わざ)()ししにあらずや」と()はん。[引照]

口語訳その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
塚本訳(最後の裁きの)かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、(入れてください。)“わたし達はあなたの名で伝道し、”あなたの名で悪鬼を追い出し、あなたの名で奇蹟を沢山行ったではありませんか』と言うであろう。
前田訳多くの人がかの日にわたしにいおう、『主よ主よ、あなたの名でわれらは預言し、あなたの名で悪霊を追い出し、あなたの名で多くの奇跡をしたではありませんか』と。
新共同かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
NIVMany will say to me on that day, `Lord, Lord, did we not prophesy in your name, and in your name drive out demons and perform many miracles?'
註解: 「その日」は終りの審判の日であって、すべての人キリストの台前に立たなければならない(ロマ2:16。Tコリ3:13。徒10:42)。その時キリストに向って右の言を述べて天国に入ることを主張するのである。「汝の名によりて」を三度繰返してその行為のキリストの御名によりて為されしことを示し、またその行為の内容はいずれも熱烈なる信仰の結果にあらざれば生じ得ざるごとき行為であって、キリストが十二人の弟子を伝道に派遣せる際も、彼らにこれらの行為を為すの能力を与え給うた(マタ10:7、8)。▲▲これらの実例が非常に宗教的な行為であることに注意すべし。

7章23節 その(とき)われ明白(あらは)()げん「われ()えて(なんぢ)らを()らず、()(ほふ)をなす(もの)よ、(われ)(はな)れされ」と。[引照]

口語訳そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
塚本訳その時わたしは、はっきり彼らに言おう、『かってお前たちを弟子にした覚えはない。“この不届者、わたしを離れよ!”』と。
前田訳そのときわたしは彼らに宣言しよう、『わたしはあなた方を知らない。不法をはたらくものはわたしを離れよ』と。
新共同そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
NIVThen I will tell them plainly, `I never knew you. Away from me, you evildoers!'
註解: イエスはこれらよりむしろ一層多く神を愛し隣人を愛する行為を求め給う。これらの行為は形は主の名によりて行われ、又内容は極めて信仰的なる使徒的行為であるごとくに見えているにも関らず、キリストは彼らを裁き給うことは一見不可解のごとくである。しかしながらキリストは心を見給う、心がキリストに連なり、キリストの力を受くるにあらざれば善き果を結ぶことができない。ゆえに果の善悪すなわち預言者の真偽を区別する標準はその心がキリストに連なって父の御意を行っているか、又はキリストより離れて自己につける利害、名誉等のためにこれを為すかにある(ヨハ15:4−6)。後者は「不法をなす者」である。
要義 [教師の真偽をいかにして区別するや]羊のごとき装束をしていても必ずしも真の教師ではない。又使徒のごとき立派なる行為をなし能力ある業をしても、必ずしも真の教師ではない。又主よ主よと呼びても必ずしも真の預言者の証拠ではない。以上の三者は普通善き信仰の証拠と見られている事柄であるけれどもこれすら教師の真偽を区別するの標準とならないとイエスは言い給う。ゆえに信者は充分に心して偽預言者を避けなければならぬ。而してその区別の標準は父の旨を行うや否やに在るのである。例えば自己の宗派をのみ思いて他派を顧みず、キリストの代りて死に給える兄弟を悲しませるごときは父の御意ではない。又心は父を離れ愛を欠いていながら唯口のみをもって、正しき教理を説くのは父の御意ではない。これらの点が教師の真偽を区別するの標準である。

3-11 結論、磐上の家 7:24 - 7:29
(ルカ6:47-49) 

7章24節 さらば(すべ)()がこれらの(ことば)をききて(おこな)(もの)を、(いは)(うへ)(いへ)をたてたる(さと)(ひと)(なずら)へん。[引照]

口語訳それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
塚本訳だから、以上のわたしの話を聞いてそれを行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。
前田訳だれでもこれらわがことばを聞いてそれを行なうものは、おのが家を岩の上に建てた賢い人にたとえられよう。
新共同「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
NIV"Therefore everyone who hears these words of mine and puts them into practice is like a wise man who built his house on the rock.
註解: 単にキリストの言を聞くだけでは足りない。これを行うことによりて始めて山上の垂訓全体が意義を持つに至るのである。山上の垂訓はあまりに高き理想であってこれを行うことができず、又キリストはこれを行わしめんがために教えたのではないと唱うるものは、この一節によりてその誤りを発見しなければならない。キリストは磐である、我らはその上に建てなければならない(1コリント3:10)。

7章25節 (あめ)ふり(ながれ)みなぎり、(かぜ)ふきてその(いへ)をうてど(たふ)れず、これ(いは)(うへ)()てられたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
塚本訳雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家に襲いかかったが、倒れなかった。岩の上に土台があったからである。
前田訳雨が降り、川が流れて来、風が吹いてその家に当たっても倒れなかった。岩の上に基礎があったからである。
新共同雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
NIVThe rain came down, the streams rose, and the winds blew and beat against that house; yet it did not fall, because it had its foundation on the rock.
註解: 雨は上より、風は横より、流れは下よりその家を襲うても微動だにしない。キリストの言を聞きて行う者はいかなるサタンの働き、いかなる迫害、またいなかる偽の教師が彼を四方より襲っても彼を滅ぼすことができない。彼は岩なるキリストの上に堅く立ち、キリストとの霊の交わりによりて力を得、彼より力を受けてその言を行うことを得るからである。

7章26節 すべて()がこれらの(ことば)をききて(おこな)はぬ(もの)を、(すな)(うへ)(いへ)()てたる(おろか)なる(ひと)(なずら)へん。[引照]

口語訳また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
塚本訳また、わたしの話を聞くだけでそれを行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
前田訳だれでもこれらわがことばを聞いてそれを行なわないものは、おのが家を砂の上に建てた愚かな人にたとえられよう。
新共同わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
NIVBut everyone who hears these words of mine and does not put them into practice is like a foolish man who built his house on sand.

7章27節 (あめ)ふり(ながれ)みなぎり、(かぜ)ふきて()(いへ)をうてば、(たふ)れてその顛倒(たふれ)はなはだし』[引照]

口語訳雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
塚本訳雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家にうちつけると、倒れてしまった。ひどい倒れ方であった。」
前田訳雨が降り、川が流れて来、風が吹いてその家に当たると、倒れた。そしてその倒れ方はひどかった」。
新共同雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
NIVThe rain came down, the streams rose, and the winds blew and beat against that house, and it fell with a great crash."
註解: キリストの教えを聞きて行わない者はキリストに従わない者、すなわちキリストを愛しない者である(ヨハ14:23)。キリストより離れている者はいかにキリスト者の名があり外観は同一であっても、試練、迫害、偽教師より襲わるる時直ちに破滅に帰してしまうのである。キリストのこの教えを行わないキリスト教国の末路を見るならば、この言の真理を知ることができよう。

7章28節 イエスこれらの(ことば)(かた)りをへ(たま)へるとき、群衆(ぐんじゅう)その(をしへ)(をどろ)きたり。[引照]

口語訳イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
塚本訳イエスがこれらの話を終えられた時、一しょに聞いていた群衆はその教えに感心してしまった。
前田訳そして、イエスがこれらのことばを終えられたとき、群衆は彼の教えにおどろいた。
新共同イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
NIVWhen Jesus had finished saying these things, the crowds were amazed at his teaching,

7章29節 それは學者(がくしゃ)らの(ごと)くならず、權威(けんゐ)ある(もの)のごとく(をし)(たま)へる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
塚本訳自分たちの聖書学者のようでなく、権威を持つ者のように教えられたからである。
前田訳それは、彼らを教えること権威あるもののごとくであり、彼らの学者らのごとくでなかったからである。
新共同彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
NIVbecause he taught as one who had authority, and not as their teachers of the law.
註解: 群衆は驚きに充たされてイエスの教えを聞いた。この語は最もよくイエスの御言を聞ける者の心を表わしている(22:33)。学者は律法と預言者に精通しているけれども権威がない、権威なるものは上より与えられし力である(マタ21:23−27)。ゆえに上より力を与えられし者は無学者いえども権威がある。イエスはこの権威を溢るるばかり有ち給うた。今日この山上の垂訓を読む者すらなおこの権威に打たれるのである。
要義1 [山上の垂訓について](1) 山上の垂訓はトールックも言えるごとく神の国のマグナ・カルタ(大憲章)である。神の国の民が地上において肉の生命を享け、悪魔の支配しつつある世に生存を続くる間の道徳的生活の理想である。これをもって単に天国に入りて後に始めて到達し得べき理想に過ぎずとするのは誤っている、何となれば天国においては悲しみも涙もなく(5:4。黙21:4)、キリスト者の迫害もなく(5:10、11)、すべての律法は充たされ、悪魔の我らを誘うものなく、偽善の必要もなく又財宝を貯うるの要もなく、偽預言者に対する警戒も必要なく、これらすべてが完全に充たされ不要に帰せるがごとき状態に達するがゆえである。それゆえに山上の垂訓はあくまでも天国の民のこの世における道徳の標準であって、これをすべて実行するのが天国の民の務めである。  
(2) 而して山上の垂訓は我らを殺し又我らを活かす両刃の剣である。この垂訓の標準に照らして我ら自己を審く時、我らの心の中の罪はすべて明瞭に眼前に露出せられ、我らは到底これに耐えることができない。この教訓をすべて守らんと努力するに従い、ますます自己の罪の深さと無力とを感ぜしめらるるのであり、遂には神の前に自己のすべての罪を懺悔して、その赦しを乞うに至らしめらるるのである。もし道徳の標準が世間普通の標準をもって満足しているならば、我らには心よりの悔改めは有り得ない。儒教の程度の標準をもってしても尚罪の意識が深甚であり得ない。かくして窮極まで追いやられて悩める魂はキリストの十字架にすべての罪の赦しを見出し、新たに上より生れ出づることによりて新生命を獲得するに至るのである。ゆえに山上の垂訓は我らを殺し、また我らを生かすの力を持っている。
(3) 而して新たに生れし者にとって山上の垂訓はその行為の基準となるのである。前に自己の無力によりてこの教訓を実行し得ざりし者も、キリストによりて新たに生るることによりて、聖霊の賜物を受け、この力によりてこれらを実行し得るに至るのである。それゆえに山上の垂訓は律法以上の律法であり福音の心髄であって、決してイスラエルに与えられし新たなる律法ではなく、すべての神の民に宣伝へられし福音である。何となればそこの霊的自由の世界の光景が完全に描き出されているからである。山上の垂訓を遵守し、律法の一点一画をも成就することは決して律法的精神をもってはこれを為すことができない。唯霊による自由を得、愛によりて働く者のみこれを為すことができる。
要義2 [我らはこれを実行し得るや]然り、我らはこれを実行し得る。勿論生来のままなる我らは到底これを実行することができない。しかしながら新たに与えられし神の霊により神に信頼しキリストに服従することによりて、この教訓を実行することができる。神は我らに行う能わざることを命じ給わない。我らに命ずると共に又必ず我らにこれを行うの力をも与え給う。ただ我らこの教訓を文字的に解釈してその真意を失わざらんことを努めなければならぬ。文字的に見るならば主イエスすら山上の垂訓の違反者であった。
要義3 [これを遵守するの結果]は人々をして天の神を崇むるに至らしむるであろう。而してもしすべての人が福音を信じてこの山上の垂訓を行うことができるならば、この世がそのまま天国と化し去るであろう。しかしながらキリスト再び来て悪魔を縛し給うまで、我らこれを期待することができない。我らは唯迫害と苦難の中にありてキリストと偕に苦しみつつ、キリストと共にこの教訓を実現することができるだけである。